燕王は初より朝野の注目せるところとなり、且は威望材力も群を抜けるなり、又其の終に天子たるべきを期するものも有るなり、又私に異人術士を養い、勇士勁卒をも蓄え居れるなり、人も疑い、己も危ぶみ、朝廷と燕と竟に両立する能わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王橚の執えらるゝを見て、燕王は遂に壮士を簡みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容す能わず。たま/\北辺に寇警ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞を出でしめ、其の羽翼を去りて、其の咽喉を扼せんとし、乃ち工部侍郎張昺をもて北平左布政使となし、謝貴を以て都指揮使となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公徐輝祖、曹国公李景隆をして、謀を協せて燕を図らしむ。
建文元年正月、燕王長史葛誠をして入って事を奏せしむ。誠、帝の為に具に燕邸の実を告ぐ。こゝに於て誠を遣りて燕に還らしめ、内応を為さしむ。燕王覚って之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲す。皇道を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史曾鳳韶これを劾せしが、帝曰く、至親問う勿れと。戸部侍郎卓敬、先に書を上って藩を抑え禍を防がんことを言う。復密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平は、形勝の地にして、士馬精強に、金元の由って興るところなり、今宜しく封を南昌に徒したもうべし。然らば則ち万一の変あるも控制し易しと、帝敬に対えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋文揚広は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑す。燕王の傲慢なる、何をか為さゞらん。敬の言、敦厚を欠き、帝の意、醇正に近しと雖も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲む可きかな、敬の言却って実に切なり。然れども帝黙然たること良久しくして曰く、卿休せよと。三月に至って燕王国に還る。都御史暴昭、燕邸の事を密偵して奏するあり。北平の按察使僉事の湯宗、按察使陳瑛が燕の金を受けて燕の為に謀ることを劾するあり。よって瑛を逮捕し、都督宗忠をして兵三万を率い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下に隷し、開平に屯して、名を辺に備うるに藉り、都督の耿瓛に命じて兵を山海関に練り、徐凱をして兵を臨清に練り、密に張昺謝貴に勅して、厳に北平の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視、国に帰れるより疾に托して出でず、之を久しゅうして遂に疾篤しと称し、以て一時の視聴を避けんとせり。されども水あるところ湿気無き能わず、火あるところは燥気無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒というもの変を上り、燕の官校于諒周鐸等の陰事を告げゝれば、二人は逮えられて京に至り、罪明らかにして誅せられぬ。こゝに於て事燕王に及ばざる能わず、詔ありて燕王を責む。燕王弁疏する能わざるところありけん、佯りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或は土壌に臥して、時を経れど覚めず、全く常を失えるものゝ如し。張昺謝貴の二人、入りて疾を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐を囲み、身を顫わせて、寒きこと甚しと曰い、宮中をさえ杖つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂う者もあり、朝廷も稍これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠ひそかに昺と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩くして、後日の計に便にせんまでの詐に過ぎず、本より恙無きのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の鄧庸というもの、闕に詣り事を奏したりけるを、斉泰請いて執えて鞠問しけるに、王が将に兵を挙げんとするの状をば逐一に白したり。
待設けたる斉泰は、たゞちに符を発し使を遣わし、往いて燕府の官属を逮捕せしめ、密に謝貴張昺をして、燕府に在りて内応を約せる長史葛誠、指揮盧振と気脈を通ぜしめ、北平都指揮張信というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執えしむ。信は命を受けて憂懼為すところを知らず、情誼を思えば燕王に負くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能わず、進退両難にして、行止ともに艱く、左思右慮、心終に決する能わねば、苦悶の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝の深憂太息することよ、と詰り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母大に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興、毎に言えり王気燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能く擒にするところにあらざるなり、燕王に負いて家を滅することなかれと。信愈々惑いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂に怒って曰く、何ぞ太甚しきやと。乃ち意を決して燕邸に造る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径ちに門に至りて見ゆることを求め、ようやく召入れらる。されども燕王猶疾を装いて言わず。信曰く、殿下爾したもう無かれ、まことに事あらば当に臣に告げたもうべし、殿下もし情を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当に執われに就きたもうべし、如し意あらば臣に諱みたもう勿れと。燕王信の誠あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍を召して、将に大事を挙げんとす。
天耶、時耶、燕王の胸中颶母まさに動いて、黒雲飛ばんと欲し、張玉、朱能等の猛将梟雄、眼底紫電閃いて、雷火発せんとす。燕府を挙って殺気陰森たるに際し、天も亦応ぜるか、時抑至れるか、颷風暴雨卒然として大に起りぬ。蓬々として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然として至り、澎然として瀉ぎ、猛打乱撃するの雨と伴なって、乾坤を震撼し、樹石を動盪しぬ。燕王の宮殿堅牢ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦吹かれて空に飄り、砉然として地に堕ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆ぞ。さすがの燕王も心に之を悪みて色懌ばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹裂くる声、物凄じき天地を睥睨して、惨として隻語無く、王の左右もまた粛として言わず。時に道衍少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆や、と白す。本より此の異僧道衍は、死生禍福の岐に惑うが如き未達の者にはあらず、膽に毛も生いたるべき不敵の逸物なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何、とありけるに、昂然として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦を堕す。時に取っての祥とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言に聞えければ、燕王も堪えかねて、和尚何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵る。道衍騒がず、殿下聞しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以てすと申す、瓦墜ちて砕けぬ、これ黄屋に易るべきのみ、と泰然として対えければ、王も頓に眉を開いて悦び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼邦の制、天子の屋は、葺くに黄瓦を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然凛然、糾々然、直にまさに天下を呑まんとするの勢をなさしめぬ。
燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛らしめぬ。矢石未だ交るに至らざるも、刀鎗既に互に鳴る。都指揮使謝貴は七衛の兵、并びに屯田の軍士を率いて王城を囲み、木柵を以て端礼門等の路を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔、及び王府の官属を逮うべきの詔至りぬ。秋七月布政使張昺、謝貴と与に士卒を督して皆甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一言の支吾あらんには、巌石鶏卵を圧するの勢を以て臨まんとするの状を為し、昺貴の軍の殺気の迸るところ、箭をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡く、彼の軍は甚だ多し、奈何せんと。朱能進んで曰く、先ず張昺謝貴を除かば、余は能く為す無き也と。王曰く、よし、昺貴を擒にせんと。壬申の日、王、疾癒えぬと称し、東殿に出で、官僚の賀を受け、人をして昺と貴とを召さしむ。二人応ぜず。復内官を遣して、逮わるべき者を交付するを装う。二人乃ち至る。衛士甚だ衆かりしも、門者呵して之を止め、昺と貴とのみを入る。昺と貴との入るや、燕王は杖を曳いて坐し、宴を賜い酒を行り宝盤に瓜を盛って出す。王曰く、たま/\新瓜を進むる者あり、卿等と之を嘗みんと。自ら一瓜を手にしけるが、忽にして色を作して詈って曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族、尚相互に恤ぶ、身は天子の親属たり、而も旦夕に其命を安んずること無し、県官の我を待つこと此の如し、天下何事か為す可からざらんや、と奮然として瓜を地に擲てば、護衛の軍士皆激怒して、前んで昺と貴とを擒え、かねて朝廷に内通せる葛誠盧振等を殿下に取って押えたり。王こゝに於て杖を投じて起って曰く、我何ぞ病まん、奸臣に迫らるゝ耳、とて遂に昺貴等を斬る。昺貴等の将士、二人が時を移して還らざるを見、始は疑い、後は覚りて、各散じ去る。王城を囲める者も、首脳已に無くなりて、手足力無く、其兵おのずから潰えたり。張昺が部下北平都指揮の彭二、憤慨已む能わず、馬を躍らして大に市中に呼わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門に殺到す。燕王の勇卒龐来興、丁勝の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦散じぬ。此勢に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北に転戦して元兵と相馳駆し、千軍万馬の間に老い来れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余瑱は、走って居庸関を守り、馬宣は東して薊州に走り、宋忠は開平より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢て進まずして、退いて懐来を保ちたり。