景隆小字は九江、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦むるに因るも、又別に所以有るなり。景隆は李文忠の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経を治め、其の家居するや恂々として儒者の如く、而も甲を擐き馬に騎り槊を横たえて陣に臨むや、踔厲風発、大敵に遇いて益壮に、年十九より軍に従いて数々偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重するところとなれるのみならず、西安に水道を設けては人を利し、応天に田租を減じては民を恵み、誅戮を少くすることを勧め、宦官を盛んにすることを諫め、洪武十五年、太祖日本懐良王の書に激して之を討たんとせるを止め、(懐良王、明史に良懐に作るは蓋し誤也。懐良王は、後醍醐帝の皇子、延元三年、征西大将軍に任じ、筑紫を鎮撫す。菊池武光等之に従い、興国より正平に及び、勢威大に張る。明の太祖の辺海毎に和寇に擾さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以て威嚇するや、王答うるに書を以てす。其略に曰く、乾坤は浩蕩たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪なり、諸邦を作して以て分守す。蓋し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也。吾聞く、天朝戦を興すの策ありと、小邦亦敵を禦ぐの図あり。豈肯て途に跪いて之を奉ぜんや。之に順うも未だ其生を必せず、之に逆うも未だ其死を必せず、相逢う賀蘭山前、聊以て博戯せん、吾何をか懼れんやと。太祖書を得て慍ること甚だしく、真に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和元年に当る。時に王既に今川了俊の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝の皇子良成王に譲り、筑後矢部に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務をば執りたまわず、年代齟齬するに似たり。然れども王と明との交渉は夙に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此事我が国に史料全く欠け、大日本史も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚にあらず。)一個優秀の風格、多く得可からざるの人なり。洪武十七年、疾を得て死するや、太祖親しく文を為りて祭を致し、岐陽王に追封し、武靖と諡し、太廟に配享したり。景隆は是の如き人の長子にして、其父の蓋世の武勲と、帝室の親眷との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀、雍容都雅、顧盻偉然、卒爾に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡出でゝ軍を湖広陝西河南に練り、左軍都督府事となりたるほかには、為すところも無く、其功としては周王を執えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮にして羊質、所謂治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を蹀み剣を揮いて進み、創を裹み歯を切って闘うが如き経験は、未だ曾て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其真を得たりしなり。
李景隆は大兵を率いて燕王を伐たんと北上す。帝は猶北方憂うるに足らずとして意を文治に専らにし、儒臣方孝孺等と周官の法度を討論して日を送る、此間に於て監察御史韓郁(韓郁或は康郁に作る)というもの時事を憂いて疏を上りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康の手足なりとなし、之を待つことの厚からずして、周王湘王代王斉王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為に計る者の過にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為し、諺に曰く、親者之を割けども断たず、疎者之を続げども堅からずと、是殊に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈し、湘王を封じ、周王を京師に還し、諸王世子をして書を持し燕に勧め、干戈を罷め、親戚を敦うしたまえ、然らずんば臣愚おもえらく十年を待たずして必ず噬臍の悔あらん、というに在り。其の論、彝倫を敦くし、動乱を鎮めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時既に去り、勢既に成るの後に於て、此言あるも、嗚呼亦晩かりしなり。帝遂に用いたまわず。
景隆の炳文に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆を具せるを指摘し、我之を擒にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平を世子に守らしめ、東に出でゝ、遼東の江陰侯呉高を永平より逐い、転じて大寧に至りて之を抜き、寧王を擁して関に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲、梁明等、世子を奉じて防守甚だ力むと雖も、景隆が軍衆くして、将も亦雄傑なきにあらず、都督瞿能の如き、張掖門に殺入して大に威勇を奮い、城殆ど破る。而も景隆の器の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟ちて倶に進めと令し、機に乗じて突至せず。是に於て守る者便を得、連夜水を汲みて城壁に灌げば、天寒くして忽ち氷結し、明日に至れば復登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱さんことを期せしに、景隆既に彀に入り来りぬ、何ぞ箭を放たざらんや。大寧より還りて会州に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬を右軍に、徐忠を前軍に、降将房寛を後軍に将たらしめ、漸く南下して京軍と相対したり。十一月、京軍の先鋒陳暉、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷して曰く、天若し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷果して合す。燕の師勇躍して進み、暉の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃し、遂に連りに其七営を破って景隆の営に逼る。張玉等も陣を列ねて進むや、城中も亦兵を出して、内外交攻む。景隆支うる能わずして遁れ、諸軍も亦粮を棄てゝ奔る。燕の諸将是に於て頓首して王の神算及ぶ可からずと賀す。王曰く、偶中のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙す。燕王が英雄の心を攬るも巧なりというべし。
景隆が大軍功無くして、退いて徳州に屯す。黄子澄其敗を奏せざるを以て、十二月に至って却って景隆に太子太師を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌を攻めて之を降す。
前に疏を上りて、諸藩を削るを諫めたる高巍は、言用いられず、事遂に発して天下動乱に至りたるを慨き、書を上りて、臣願わくは燕に使して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上りたり。其略に曰く、太祖升遐したまいて意わざりき大王と朝廷と隙あらんとは。臣おもえらく干戈を動かすは和解に若かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見えん。昔周公流言を聞きては、即ち位を避けて東に居たまいき。若し大王能く首計の者を斬りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質にし、骨肉猜忌の疑を釈き、残賊離間の口を塞ぎたまわば、周公と隆んなることを比すべきにあらずや。然るを慮こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉くことを得て、殿下文臣を誅することを仮りて実は漢の呉王の七国に倡えて晁錯を誅せんとしゝに効わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠りて数群を取りたもうと雖も、数月以来にして、尚蕞爾たる一隅の地を出づる能わず、較ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其一をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則ち君臣たり、親は則ち骨肉たるも、尚離れ間たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍が念こゝに至るごとに大王の為に流涕せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言を信じ、上表謝罪し、甲を按き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥あり、天人共に悦びて、太祖在天の霊も亦安んじたまわん。倘迷を執りて回らず、小勝を恃み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為す可からざるの悖事を僥倖するを敢てしたまわば、臣大王の為に言すべきところを知らざる也。況んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜の民驚きを受く。仁を求め国を護るの義と、逕庭あるも亦甚し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪するの批議無きにあらじ。もし幸にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何の人と謂い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣の微命、もとより死を畏れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩を蒙りて、臣が孝行を旌したもうを辱くす。巍既に孝子たる、当に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見ゆるを得ば、巍も亦以て愧無かるべし。巍至誠至心、直語して諱まず、尊厳を冒涜す、死を賜うも悔無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚るところ無く白しける。されど燕王答えたまわねば、数次書を上りけるが、皆効無かりけり。
巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此に対して如何の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦を開く、巍の言善しと雖も、大河既に決す、一葦の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其言と、忠孝敦厚の人たるに負かず。数百歳の後、猶読む者をして愴然として感ずるあらしむ。魏と韓郁とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正に拠りて、言を為せる者也。
年は新になりて建文二年となりぬ。燕は洪武三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州を下し、大同を攻む。景隆師を出して之を救わんとすれば、燕王は速く居庸関より入りて北平に還り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼の兵来りて燕を助く。蓋し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮りて、燕王の請えるなり。春闌にして、南軍勢を生じぬ。四月朔、景隆兵を徳州に会す、郭英、呉傑は真定に進みぬ。帝は巍国公徐輝祖をして、京軍三万を帥いて疾馳して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑等、軍六十万を合し、百万と号して白溝河に次す。南軍の将平安驍勇にして、嘗て燕王に従いて塞北に戦い、王の兵を用いるの虚実を識る。先鋒となりて燕に当り、矛を揮いて前む。瞿能父子も亦踴躍して戦う。二将の向う所、燕兵披靡す。夜、燕王、張玉を中軍に、朱能を左軍に、陳亨を右軍に、丘福を騎兵に将とし、馬歩十余万、黎明に畢く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛の陣を擣いて之を破る。張玉等之を見て懼色あり。王曰く、勝負は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為に敵を破らんと。既ち精鋭数千を麾いて敵の左翼に突入す。王の子高煦、張玉等の軍を率いて斉しく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声天に震い 飛矢雨の如し。王の馬、三たび創を被り、三たび之を易う。王善く射る。射るところの箭、三箙皆尽く。乃ち剣を提げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒折れ欠けて、撃つに堪えざるに至る。瞿能と相遇う。幾んど能の為に及ばる。王急に走りて隄に登り、佯って鞭を麾いで、後継者を招くが如くして纔に免れ、而して復衆を率いて馳せて入る。平安善く鎗刀を用い、向う所敵無し。燕将陳亨、安の為に斬られ、徐忠亦創を被る。高煦急を見、精騎数千を帥い、前んで王と合せんとす。瞿能また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒相視て驚き動く。王これに乗じ、勁騎を以て繞って其後に出で、突入馳撃し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵、勝聚等皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼り火を縦つ。急風火を扇る。是に於て南軍大に潰え、郭英等は西に奔り、景隆は南に奔る。器械輜重、皆燕の獲るところとなり、南兵の横尸百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此戦、軍を全くして退く者、徐輝祖あるのみ。瞿能、平安等、驍将無きにあらずと雖も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以てす。北軍の克ち、南軍の潰ゆる、まことに所以ある也。