二
河下の方へ歩き出した彼は、やがて誰一人飛んだ事のない、三丈ほども幅のある流れの汀へ足を止めた。そこは一旦湍った水が今までの勢いを失いながら、両岸の石と砂との間に青々と澱んでいる所であった。彼はしばらくその水面を目測しているらしかったが、急に二三歩汀を去ると、まるで石投げを離れた石のように、勢いよくそこを飛び越えようとした。が、今度はとうとう飛び損じて、凄じい水煙を立てながら、まっさかさまに深みへ落ちこんでしまった。
彼の河へ落ちた所は、ほかの若者たちがいる所と大して離れていなかった。だから彼の失敗はすぐに彼等の目にもはいった。彼等のある者はこれを見ると、「ざまを見ろ」と云うように腹を抱えて笑い出した。と同時にまたある者は、やはり囃し立てながらも、以前よりは遥に同情のある声援の言葉を与えたりした。そう云う好意のある連中の中には、あの精巧な勾玉や釧の美しさを誇っている若者なども交っていた。彼等は彼の失敗のために、世間一般の弱者のごとく、始めて彼に幾分の親しみを持つ事が出来たのであった。が、彼等も一瞬の後には、また以前の沈黙に――敵意を蔵した沈黙に還らなければならない事が出来た。
と云うのは河に落ちた彼が、濡れ鼠のようになったまま、向うの汀へ這い上ったと思うと、執念深くもう一度その幅の広い流れの上を飛び越えようとしたからであった。いや、飛び越えようとしたばかりではない。彼は足を縮めながら、明礬色の水の上へ踊り上ったと思う内に、難なくそこを飛び越えた。そうしてこちらの水際へ、雲のような砂煙を舞い上げながら、どさりと大きな尻餅をついた。それは彼等の笑を買うべく、余りに壮厳すぎる滑稽であった。勿論彼等の間からは、喝采も歓呼も起らなかった。
彼は手足の砂を払うと、やっとずぶ濡れになった体を起して、仲間の若者たちの方を眺めやった。が、彼等はもうその時には、流れを飛び越えるのにも飽きたと見えて、また何か新しい力競べを試むべく、面白そうに笑い興じながら、河上の方へ急ぐ所であった。それでもまだ容貌の醜い若者は、快活な心もちを失わなかった。と云うよりも失う筈がなかった。何故と云えば彼等の不快は未に彼には通じなかった。彼はこう云う点になると、実際どこまでも御目出度く出来上った人間の一人であった。しかしまたその御目出度さがあらゆる強者に特有な烙印である事も事実であった。だから仲間の若者たちが河上の方へ行くのを見ると、彼はまだ滴を垂らしたまま、麗らかな春の日に目かげをして、のそのそ砂の上を歩き出した。
その間にほかの若者たちは、河原に散在する巌石を持上げ合う遊戯を始めていた。岩は牛ほどの大きさのも、羊ほどの小ささのも、いろいろ陽炎の中に転がっていた。彼等はみんな腕まくりをして、なるべく大きい岩を抱き起そうとした。が、手ごろな巌石のほかは、中でも膂力の逞しい五六人の若者たちでないと、容易に砂から離れなかった。そこでこの力競べは、自然と彼等五六人の独占する遊戯に変ってしまった。彼等はいずれも大きな岩を軽々と擡げたり投げたりした。殊に赤と白と三角模様の倭衣の袖をまくり上げた、顔中鬚に埋まっている、背の低い猪首の若者は、誰も持ち上げない巌石を自由に動かして見せた。周囲に佇んだ若者たちは、彼の非凡な力業に賞讃の声を惜まなかった。彼もまたその賞讃の声に報ゆべく、次第に大きな巌石に力を試みようとするらしかった。
あの容貌の醜い若者は、ちょうどこの五六人の力競の真最中へ来合せたのであった。