その翌朝、彼は飛び散った紙片の下敷のなかに短かい眠りを醒した。この日は日曜日であった。
昨夜の雨はその夜のことを忘れたかのように晴れ上っていた。彼は綿密な注意を配りながら部屋のなかを見廻した。そうして今や彼は荷造りでもはじめようとするかのようにしかも手荒に行李をかたづけ、押入のなかへしまい込んだ。そうして彼は路地の入口の店へ煙草を買いに行くついでに、街路の様子を窺ってみた。乾き切らない路は、タイヤーとか靴蹟とかのために無惨にも掘り返されていた。ちょっと気を奪われて見ると、まるまると毛にふくらんだ子犬が、向側の寺院の石段を脚早に登って行くのであった。子犬の躯は重そうに見える。いかにもその足並みが苦しそうに見える。しかしその子犬は、石段の上の見えないところから漏れてくる口笛を目当てに急いでいた。
彼が求めた煙草はかなり香味を失っていた。そうして彼が部屋に戻って、三本目かそこらの煙草を喫み終らないうちに、障子の外で人のけはいがした。
「居るかね。」
「うむ……」
部屋へ這入って来た青沼白心の顔は、一瞬わざとらしく歪められた。
「や、これはひどい烟だね……君、君の死んだ後で、君の肉体を煙草にして喫んだら、さぞ美味しかろう!」
青沼の呟くようなこの言葉は、彼をいたく苦しめた。これは青沼の冗談であろうか。と、またしても奇妙な考えに耽けろうとした時、彼は時計の打ちひびく音を階下の方から聞いた。
「みじめなものさ……そうむちゃに喫むのはよし給え。」
この言葉で、彼は親友も亦、彼自身の敵の連累者になったのではあるまいかと疑いはじめた。
「おれは多分死ぬだろう!」
彼は自分へ言い惑うように言った。
「また君は興奮してるね。」
「そうかも知れない、見る人によっては……だが、そんなことは万々あるまい。」
「そうかね、それならいいのだが……少し病気でもありはしまいかとも思った、それとも何か考えごとでもあったのか?」
「うむ、考えたかも知れない……」
そうして彼は唇のあたりへ苦笑ともつかない青沼の優しい微笑を見逃しはしなかった。彼には左右へ首を動かしている熊にも似た親友の態度が煩さく思われた。
「また何かね、それヴェトウェンが大工でなかったと言うことかね、それともゲエテは彼の生涯のうちに幾回口笛を吹いたかと言う例の事柄かね?」
こう言った青沼は、腕を胸の上へ組み合せて、部屋のなかを調子でもとっているかのように歩き廻った。
「莫迦な、アハ、ハ、ハ、ハ……」
彼は自分の額を拳で叩きながら笑った。
「ああ、興奮はよくないよ、アスファルトなどの烟りたつような興奮はよくないよ……今度僕は三間の部屋のある家を貸りたのだが、君もそこへ来てはどうだろうかね? 少しは静養にもなるし……そこは郊外でね、そうしたまえ!」
「うむ」と、彼は思わずも口を滑らしてしまった。「だが、おれは殺されたくはないよ。殺されたくは……」
「殺す? 誰が?……君をかね?」
「アハ、ハ、ハ、ハ、解りはしまいね?」
「巻狩りをするのか、困るよ。」
「君はどう考えた?」
「何を?」
「万事休す、そして生きた人間の魂を買収するのだよ。」
「誰の?」
「人間の……つまり確かな証拠を握るために……しかし多分その人間が、いや、その男が捕えられた時には、彼はすでに破産者になっているだろう――狼狽と擾乱と滅亡とそして眼には見えない悲惨との犠牲者になっているだろう……二重の復讎になって……」
「よし給え、君の言っていることは、僕には嚥込みかねるね、一たいそれは憤恨かね、それとも自己侮蔑かね……僕には解らない……君は何かへ対して挑戦でもしていそうだ。そんな健全でない自己嘲笑はよし給え……それとも皮肉かね……君は君自身で妙な秤で評価しようとしている……」
「そうだね、歪んだ秤だよ。」
「もういい加減のところで止すのだね、君はどうかしているのだ?」
「うむ、忘れるな、希望が湧いたのだよ。」
「希望?」
「いや、貪婪な悪魔……」と、彼は言いかけて、彼自身を顧みて見ようとする気になった。その時彼にはそんな衝動が感じられたのであった。そうして彼の言ったことが、ついには滑稽な様子で解剖台の上へ転輾とするのではあるまいかと思うと、彼は自分の狡猾な態度が呪わしくなって来た。そうして彼は、かなりぼんやりした文句ででも、親友青沼はすでに自分の敵であると悟らせようとしたことが恥かしくなって来た。それに両眼を閉じて頬を顫わしている親友が気の毒でもあった。よし彼の言ったことが狡猾とは言われないまでも、取るにも足らない憤恨の安売であった。言わば憎悪にはじまった復讐の態度であった。そうしてそれらは唾を吐きかけられるものでなければならない、同時に意義を求める人々にとっては笑うべきことであったろう。それこそ文字通りに彼自身が言った貪婪な悪魔の身振りに違いなかった。彼は彼自身をメィフェストやヨブに擬えようと無意識のうちに考えていたのであったと思えば興味がないでもなかったが、却って肉体的の憂鬱を感じさせられる方が遙かに多かった。そうして彼は自分の手で仕掛けた罠に陥ったようなものであったと思えば、自慢の出来る話ではない。そうして彼はとうとう独り言を言うようにしかも何気なくちょっとは思い出せない人の言葉を呟いて見た。
「や、これは全く日毎日毎の悲劇の永遠的な喜劇だ!」
そうして彼は自分がその場にただ一人でいて、勝手な妄想に耽りきっているかのように振舞うた。
間もなくして彼と青沼とは散歩に出かけた。電車は頭を痛めるという我儘な彼の申し出から二人は歩いた。空は重苦しく垂れ下って来そうであった。それに少し歩くとびっしょりと汗が滲み出て来た。彼は不思議に落着かなかった。こんな気分が相手へ感じたせいか、彼が親友と腕を組もうとしたら、親友は恥かしそうにそれを拒んだ。彼は声を出して笑った。青沼は打たれた後のような顔色をして余り口も利かずに、絶えず何かを聞こうとするかのように耳を澄している様子であった。
彼等は自動ピアノの据え附けてあるレストランで、軽い昼餐をとった。そこを出てしまうと、彼は突然思い出したことがあるかのように、親友へ別れを告げた。青沼は無言のまましかも彼自身の気のせいか、眼を潤わせながら、数回頭を下げて挨拶した。彼はもう少しのところで、親友の傍へ近寄って行き、その手を力強く握ってみる気になった。しかし彼は遠くの方に電車のカアブする響を聞いて、ひょっくり気が抜けてしまった。そうして彼は自分の足が、親友のそれとは反対の方向へ歩みはじめた時、全く別な考えに捉えられていた。そうして彼の目前には、華かな躁宴の光景が、はっきりとしかも細やかに描き出されていた。すると彼は現に自分が金の持合せを欠いていることに寂しさを感じた。ふとこんな考えを逐いかけると、彼は自分の躯の置き場所に苦しむように感じた。彼は自分の躯が、足の指先きから痺れて来るようにさえ感じた。そうして今彼が歩いている弓型に撓むその町の通りは、急にその反対の方へ反り返えるように思われた。彼はそんなとりとめない考えを楽しみながら歩いていた。そうしてこんなふうに考え続けている一方では、これらの考えを、夕暮時、気まぐれにであるが、反射のために輝やく金色の潮ででもあるかのように思っていた。それにしても現実の姿を失うこのことが、彼自身には大へんグロテスクな面影のように思えた。そうして彼はデカダンスのような熱情に煽られて、そんな物象の陳腐な幻想に多分の興味を惹かれてもいた。
その夜、彼は美角夫人を訪ねた。彼女は生きた良人を持っている未亡人であった。そうして彼と彼女との関係は、彼女が彼の母親の遠い親族であるというに過ぎなかった。彼女は三十初代の婦人であるにも拘らず、胃が弱く、その上悪い血が彼女自身の顔に薄赤い斑点を描いていた。彼女は類なく老婆心が強く、同情心も多分に持っている。
彼は美角夫人の前で血を漲らせながら、かなりの注意を怠らずに語った。彼は彼女の言葉ごとにその意味を探索した。彼は彼女の考えを彼自身の胸のなかで臆測した。彼は偽欺を固く包んで話をすすめた。――
「……で、僕はもう六ヶ月もすると大学を卒業します。その時周章てたところで仕方がありませんから……あなたは信じて下さいましょうが……あの田舎の優しい母親をこちらへ呼び寄せて一つ家に住みたいのです。僕は十分に落着いて、短かい六ヶ月の間にでも勉強したいのです。それについては過分の金が必要だろうと思います。」彼はずるく微笑みを隠しながら、「そして御存じの通りいろいろ事情が起りましょうが……事情と言っても、今のところ僕にもはっきり解りかねます。ま、金が土台になる事柄です……と、こう考えています。で、いつもながらそのお金を貸して頂きたいのです。」
「ええ、そのようなことになるのでしたら、お母さんはどんなに悦ばれることでしょう。ほんに、ほんに!」
彼女は直ぐに答えて、この最後の声を本当に女らしい声に曇らせて、彼には見えない何ものかを遠く眺めるかのように息を濁らせた。
そうして彼は故郷を出る時、彼の母が自活するようにと与えてくれた当時の大金は、未だ予定通り残っているが、それは彼自身が卒業するまでは費いたくはない、なお彼が学校を卒業してしまえば、直ぐ就職するにいいのであるから、そうしたならその借用金は、いままでの分ともに漸次に返済するであろう。それともそれは、彼の母親が直接に返済するかも知れない……それから家の方であるが、それはすでに友人へ頼んで置いたのが郊外の方にあること、そうしてその家は、相応の家賃でしかも間取もいいなどと、彼の言うことを、美角夫人は、女の一種特有な綿密さをもって聞き返しながら聞き受けた。
彼は馬に一鞭あてて、危険な細い峡谷を真一文字に馳け過ぎるように、自分の宿へ帰った。そうして彼は今夜のことを昨夜に変る幸福と称んでしまった。この有頂天で、彼は美角夫人の先刻の微笑と涙とを幻にすら見た。しかしこの幸福と称んだものは、彼自身が満足した誇りであったろうか。