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彼が舌を咬みしめて、三百四十円と書かれた小切手を目にした時、彼女の顔は明かに微笑むともつかず、かすかに歪められていた。そうして彼女は、低い聞きとれないぐらいの声で、その小切手を指差しながら、この余分は彼女の贈りものとして受けて置いてほしいと言った。彼は軽く頭を下げて、直ぐその座を去った。彼女は玄関まで送り出てきて、閾に両手をついたまま彼が門を出てしまうまで、彼の後ろを見送っていた。いま彼には彼女のそんな様子がまざまざと見えるような気がしてならなかった。そうして彼女は、「あの男は何をあんなに喜んでいるのだろう、あたしにはその訳が解らない!」とでも考えている様子であった。この考えが彼の気持であるだけ、それほど彼は訳もなく有頂天になって、その帰りには足早にしかも軽々しく歩調を乱していた。
「では御機嫌よう!」
彼は門を出てしまうと後ろを振向かずに、小声で囁くように呟いた。
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その夜、彼の胸は、有頂天に乱れてはいたものの、与えられた謙遜と同じ程度に暗く濁っていた。彼は梟の声を耳にしなかった。彼は外面的にはかなり落着いていた。彼は自分の計画の齟齬しなかったことに興味を覚えた。そうしていまは彼自身の迫害者さえこの非道に似た一種の犯罪を嗅ぎつけなかったと思えば、彼には何とも言えない無思慮の愉快感が感じられた。
その翌日、彼はわきめもふらずに、町の昼の雑沓をその中心から遠退いた。そうして彼がM――銀行で用を達してから約一時間は経過していた。――
彼の債権者は彼へ笑いかけて挨拶した。彼は口を噤んで、眼球を風車のように動かした。しかしその時、彼のポケットには、一日の煙草銭さえなくなっていた。そうして彼の貧しい札にありつけなかった債権者の一部の者は、彼の顔を煩く覗き込んだので、彼は一こと物を言わなければならなかった。
「三日後にするのだね、ではこの次に……いまは仕方がないのだから……」
彼がそれらの債鬼へこう言ったその三日目の前日は、彼が親友青沼の家へ移転する日であった。
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冷かな風はすばやい忍び足をして、青い空を横切って行った。彼はこんな天候の対照でさえ自分の胸のなかが冷たくなって行くように感じた。
彼は靴音のような喜びと驚きと怖れとの雑った一種の苦しみで、彼の母親から送られた手紙を読んでいた。彼女は明日にでも上京して来るようなことを書いて寄越した。そうしてそのことのみをその一本の手紙のなかに口やかましく繰返していた。彼自身にとって必要なことは何一つ書いてなかったと言えるほどであった。こんなことになったのも、美角夫人からの手廻しであろうと、彼は不快になって後悔した。母親は彼が何事もせずに、我儘勝手に歩き暮していると考えている。そうして彼女の考えに間違いはないのであった。ところで、その用もなくぶらぶらと歩き廻ることは、この機会を利用して止めてほしいというのであった。彼自身としても、こう言われるまでもなく、一日一日と遊び暮していることは、退屈であるばかりでなく、更に心苦しいことであるから、このことを思う瞬間からでもすぐ止めてみたい、そうして学校へも出席してみたい。と、彼は願っている。しかし彼はこう自分自身へ願っただけでどうにもならなかった。そうしていつのころからか、彼は彼自身へ向って一種の好奇心を抱くようになっていた。いまのところ、彼は彼自身へは分相応のつとめをつくしていると考えているのであった。先ず彼は学校へ出席してみたいと願った。しかし彼はすでに学校の方は放校されていた。彼はこのことを思い出しはするのであったが、未だに学校には籍があるような気がしてならなかった。こんなふうに思い耽っていると、彼は型の見えない巌石の階段を少しずつ降りているかのような恐怖に襲われるのであった。
そうして今日と言われるその日その日は、更に彼自身の気持を暗くして行った。彼は母親の手紙を読んだだけで、最早万事は露見してしまったのではないかと疑った。そうしてその疑惑は一瞬ごとに波紋をひろげて行った。美角夫人は彼を監視しているのであろう、それなのに何故彼女は金を与えたのであったろう。彼女は嘘を吐かれたとは思わなかったのであろうか。彼女は微笑みに輝いた真ならぬ偽を理解しかねたのであろうか、彼の言葉が彼女を惹きつけたのであろうか、彼の声の調子は彼女の心を衝き返さなかったのであろうか。それとも彼女は彼の心のなかに見てはならない何ものかを約束したのであったろうか。否、彼はすべて善い方面のみを見ようとしている――しかし実際彼は彼女の気に入るように骨折った。彼は自分の心からの憔悴を彼女の前で隠した。彼女はいままでに見せつけられなかった彼の態度から多少なりとも驚愕と嫌悪とを感じなかったのである――そうして彼女には彼自身へ向ける疑惑の心などは更にないのである、否、そんな態度などは少しも見せなかったのである――と、するなら彼の生活を誰が彼の母親へ告げしらしてやったのであろう。彼の母親には彼を見張るために密偵を差向けるだけの余裕はない。それなら? 彼は考えなければならない。それは慥かに何ものかが、その間に介在していなければならない。
「伝心?」
「分身?」
「陰謀者?」
彼はまたしてもこんな考えのなかへ惹き入れられようとしていた。その時、親友青沼白心と約束しておいた荷車が今いる宿へ着いたので、彼は自分を不可解な彼自身から呼び醒したように感じた。そうして彼は秩序もなく荷物をかたづけて送り出した。彼は雪のなかを蹌踉めきながら進み行く人のように、その荷車の後ろへ従いて行った。
*
彼自身は、人が言うように、決して堕落しようとは夢想だにしていなかった。彼自身には、他人から軽蔑されるだけの行為はあったにしても、それは自己の我執を刺戟したまでのことである。その行為の動機は、それこそすべて、他人の冷淡と卑劣と羨望と臆病とから生れる彼自身の恐るべき不安を愛することに根ざしてはいなかったであろうか、と、こう考え至るなら、彼にとっては、最早こんな事柄はどうでもいいことになる。いまの彼にとっては、何でもないことである。いまや彼は自分の敵に向って宣戦を布告するのであるから。
「宣戦を布告する……どんなものだろう?」と彼が肩をそびやかして威丈高になるのに対して、「お前は馬鹿だ!」と誰かがその声のない言葉を舌の先きでまるめこんでしまった――彼は歩きながらこんなことを繰返し惑うていた。突然、彼の歩調は乱れはじめた。彼は息をはずませた。彼は坂を登りかけていた。車はためらいがちに進んだ。彼は見るともなく前方を見ていた。青沼白心は坂の上で、頭上高く手を打ち振りながら、彼へ合図をしていた。
「君、遅いね、また君は悲しそうな顔をしているよ!」
彼は親友のその合図を彼自身の言葉に飜訳してみた。
その夜、彼は床へ横たわりながら、襖越しに親友と次の会話を取り交した。
「この家は坂の頂上にあるのだね?」
「そうでもないよ、少しは離れてる。」
「……いまにこの家は坂の上から転落して行くぞ、おれの躯と一緒に……」
彼は最後に自分の胸のなかで思わずも言ってみた。
*
日毎に彼は青沼の学校帰りが待たれると同時に、親友の顔を日の光のなかに見てみたいと思う心が劇しくなりはじめた。そうして彼は町の方へも出掛けてみたいと時折はひょっくりと思い出すこともないではなかった。こんな場合、いつも彼には夜の町を彷徨うている彼自身の姿が聯想された。そうして彼は戸外の光を煩さいまでに浴びているかのように、床のなかで転輾としていた。しかし彼が親友の家へ来たその翌日から、彼自身の心に求めようとするもののあらゆる機会は失われていた。
「少しは早く床を離れて、そこらを散歩してみてはどうか。」と、言ってくれる親友の心持は、彼にもよく飲みこめるのであるが、彼は一言、「ありがとう。」と、言っただけで、口を噤んでしまう。そうして彼は親友の外出する跫音を、軽く自分の耳にいれながら、彼自身の胸のなかの我と話しはじめるのであった。
「おれは朝起きする、いや、少くとも昼前には起きなければなるまい。だが、おれはそんな資格などは、疾うの昔に盗み去られてしまった。おれは自分勝手におれの持っていたものをみな盗み出してしまった。それでおれは自分で凍氷してしまった。おれ自身の内も外もいまは冬の最中に閉じこめられてしまった。そして、おれはおれ自身へ対して力がない。何故なら、おれは自分の魂をおれ自身で剽竊して、誰かに売ろうとしているうちに、うっかりそれを取りおとしてしまった。」彼は自分の胸のなかでのみ怒鳴るようにぶつぶつ言いつづけた。「それでいておれの熱情は恐怖とともに満月のように輝いてきたが、その火花は見るかげもなく、何ものかに蔽い隠されるように吹き消されてしまった。そしてそれは定められた一点に発した一直線か一曲線かのように、何処へか見当のつかないところへ逃走してしまった。ちょうどそれは、神様でも探すかのように、忍び足をしながら、何処かの廊下でも歩き廻っていることだろう。そしてそれは禁断の扉でも敲くかのように、一つの秘密の跡を逐い廻していることであろう。若しかしたら、その秘密は、おれの嫉妬であるかも知れない。それにしてもおれなどには、最早嫉妬の感情などを持つだけの資格はない。おれはそれほどの罰あたりであるかも知れない。しかしおれは未だに過去の忘却の饗宴の席へつれられてはいないのかも知れない。何故なら、このおれの執拗な抵抗を見てみろ!」と、彼は誰へ言うともなく呟いてから、彼自身を顧みて、この言葉が自分の気持の上だけのものであることを恥て怕れながらも、優しく続けるのであった。「おれは真実悲観はしていたろう。そして無限に欠伸をするほど草臥れてしまった。しかしおれは絶望はしていない。おれはおれ自身で取りおとした自分の魂を新らしく探そうと彷徨うているのかも知れない。そしてそれに違いない。」彼は決定的に寧ろ言い含めるのであった。「それに違いはない。おれは産前のありとあらゆる精力を尽したかのように、何ものかを切望していた。それには先ず手近いところからと思って、いまさら言うまでもなく、一人の母親を、あの田舎のくすぶった他人の家に瞼をこすりながらやっと生きている……一人の法外もない馬鹿な子を夢にみている母親を……裏切られたとは感じながら、未だに彼女の子を胸のなかに描いている母親を……」と、彼は囁きつづけて、はたと言い淀んだ。