「それはおれだ!」
「それはおれの母親だ!」
そうして彼はいまさらのようにびっくりしてしまった。今のいままで彼は彼自身ではない他の人のことを夢に見ていたかのようにさえ感じていたそのことが、彼自身のものであると思えば、寧ろ奇妙な気持になった。彼は想像の発明に耽っていた訳ではないが、自分ながら己のうかつなのんき者にはあきれてしまった。こう気づけば、彼はその不真面目な、鉛製の玩具のような彼自身が、更に形而下のものに思えた。彼はこんなふうに、彼自身を嘲りながらも、言葉では自分の身振りをつづけていた。
「おれは自分の母親をこの都へ呼び寄せる……おれは自分が身のほどに働いて……お前はもう働けないのだ。お前には最早働くなどという能力はないのだ。よく見てみろ、蜂の巣のように破れたその頭! 姿勢の外は飾れないその躯! 売却したも同じその胸のなかの魂のない心!……いや、これらは昔からの固定観念かも知れない。そしてこれらはおれの舞台上の過程であるかも知れない。こんなもののシンメトリーが、おれというものを、或型に入れるのかも知れない。それこそいままでにない新らしい型の混合の最初かも知れない。そしておれは形而上形而下以外の別のものになるのかも知れない。そしておれは不死の約束に入れられて、新らしいものの継続をつづけるのであるかも知れない。」彼は半信半疑の心で、自分自身を嚇しながらも、黄金の都会へでも来ているかのように独り言を囁いた。「それにしても、おれは浅薄にも溜息とともに大学を止した。一たいその遠因は何に拠ったのであるか。それは思い出さなければならないほど遠い昔のことであろうか。あ、それはそれほど遠い過去のことであった、それ以来、おれはずっとアンニューイという生物のような智力に苦しめられつづけて来た。それは闇のなかに佇む真黒な刺客と何らの変りもないものである。それは人間生活のうちで最も古くそして最も新らしく、時に従って更生を繰返している、その人生初期の観念に破れた、その反動のためであった。少年期の失恋だ。それ以来おれは天井裏を這い廻る夜の蠅のような哲学者になってしまった。おれは黄金の都会から墜落した覆面のエピキュリアンになってしまったのかも知れない!……」
彼は虚言を吐きつづけて、のたれ死にする倫理学者のように、迷妄の境に彷徨うていた。
――影佐が青沼へ物語った或小説の筋――
「金貨のジャック!」
娼婦達は、夜毎に繰返すこの言葉を胸のなかに呟いて白粉刷毛を動かした。
彼女等のクインは、窓辺に靠れて、湾内の船舶を数えた。
ダブリンの町とその湾とは、蒼白い光に慌しい雑音を織返していた。
「仕事着の情人!」
港の娘達は、戸口へ佇んで、湾内を渡って来る快い軟風を吸いながら、彼女等の胸へ叫びかけた。
彼女等の母親は、台所で食器を友として立働いていた。
夕方に三十分は猶予のある五月の暮方。
E・E・E――商標。
Fine Old Scotch Whisky――看板の黒い文字は逆に読まれる。
このレストランのなかの卓子に、二青年が座っていた。彼等は、先刻、海岸で互に言い交した言葉を、もう一度、胸のなかからカツレツの皿の上へ吐き出した。
「競争者、決闘だ」
「決闘? 競争者」
「ふむ」
「よし」
「決闘!」
「決闘!」
「今夜、客の前で――」
「客の前で――綱の上で――」
「フレンド・シップ・ダンスの時」
「フレンド・シップ・ダンスの時」
「真剣勝負」
「真剣勝負」
緑や赤の灯は、港町を飾った。舷燈は湾内の潮に浮動した。
場末のサアカスの木戸は開らいた。
ベルが鳴った――真鍮のベルであった。楽隊のはやしは子供等の足を調子づけた。
十五銭――サアカスの普通席。
子供等は、母の唇へ粗忽なキスをして、町の方へ走った。
娘等は戸口を去った。
夜は影をひいてひしめき合った。
母船を離れた大小のボートは、陸を目がけて夜光虫のように這い寄った。「金貨のジャック」は娼婦の窓を見上げた。
「決闘!」
ペテロは、胸へ十字を切って、楽屋へ這入った。
「真剣勝負!」
サルフィユは、楽屋の入口で舞台を覗いてみた。
満員
鯨波
拍子
……………
「どうせ金で買われて行く流の身なんですもの唄いますわ、唄いましょう!」
コールテーアは胸へ両手を組合せた。
「金は肉だ!」
青服は顔を歪めた。
「金は血だ!」
大工はパイプを銜えた。
「金は呼吸だ!」
壁塗職人は口笛を吹いた。
「マコトノヨ、ヒトリノオナゴ……」
「嘘だ」
「昏倒せえ」
「地獄へ出てゆけ」
「マコトノヨ、ヒトリネミドリゴ……」
「豚の子」
「尻尾をちょんぎれ」
「ハハノウデ……」
「スカートが燃えるぞ」
「金髪をとれ、その鬘だ」
「栗色」
「不快」
「金」
「血」
「肉」
「呼吸」
「ヒッス」
「ヒャア、ヒャア」
「ヒッス」
……………
女は男の前方へ腰かけて、靴下の穴をつくろうていた。灯は柱時計の下に点っていた。部屋は薄暗い。
「あたしのウィリイは……」
「何だと? 勝手にサアカスなどへやって」
男は銜えたパイプを鼻の先で弄んでいた。
「……」
「あいつは好くはならんぞ」
「神様、あの子、ウィリイを守り給え」
囁く彼女の膝の上では、靴下の穴が大きくひろがっていた。
……………
「始めた!」
……………
鯨波
拍手
ベルが鳴った――騒音のなかに、ベルは声高く鳴り響いた。
拍手
大太鼓。小太鼓。喇叭――クラリオネット。タンバリンはブリキのバネ仕掛の汽船のように震える。
アダムの父は後脚を空へ蹴上げる馬の背に威張っていた。いま、彼はミリタリズムの型に熱中している。
「猿!」
彼は剣を抜いた。百花燈に反射した一本の指揮剣は数千の瞳のなかへ閃いた。彼は無言である。馬は鞭の響に一段と跳び廻った。その度に将軍の尻尾は服のなかから空へ踊り上った。
……………
「煙草」
「ポケットだ」
開らききらない娼婦の指にはダイヤが閃いた。
鯨波
拍手
「ペテロ!」
「サルフィユ!」
二青年はレースの襞で白く縁どった青い上衣に赤い半ズボンを穿いて現れた。彼等の剣は左の腰に佩ってあった。
鯨波
拍手
青年二人は高く張り上げた綱の反対の両端に乗って弾動した。
ウィリイは微笑んだ。
「おれの世界だ!」
彼は意味もなく空を見上げた。天幕の裏が波打っていた。彼は淋しかった。彼がペテロでもサルフィユでもなかったので――彼は騒擾のなかに咳をした。一瞬、彼の瞳は曇ったが、泣いていたのではなかった。
「おれの憧れは憧れ以上のものではない」
彼は身内を顫わした。彼の疲れた瞳には軽い微笑みの色が浮いた。
「おれの才能はペテロを見るだけにも足りない。ただ彼を楽しむに過ぎない」
彼の眼は綱へ平行して走っていた。
「おれの才能はサルフィユを見るだけにも足りない。ただ彼を楽しむに過ぎない」
彼の掌には油汗が滲みでていた。
楽隊
鯨波
拍子
「フレンド、シップ、ダンス」
「おいらのサルフィユ、しっかりせえ。足元をしっかりせえ」
ペテロは相手を少々馬鹿にしてかかった。サルフィユは先ず彼の剣を突き出した。
カチン
火花
ペテロは軽く腰を引いて、相手の顔を睨めつけた。
カチン
火花
ヒュッ――ヒュッ
火花
火花
汗――
熱狂
動悸
熱い呼吸
血の熱狂
肉の躍動
汗
熱い呼吸
心臓の鼓動は綱の上に波打った。
声――
声
怒
怒
火花
憤怒
「おいらのペテロ」
「おいらのサルフィユ」
「しっかりせえ」
「それッ」
「右だ」
カチン――カチン
恐るべき光景
笑うべき光景
観客は両人の事情を露さえ知らなかった。
楽しむべき光景
恐るべき光景
観客は両人の決闘を演技の一つと思った。
「ヤッ」
綱は波のように弾んだ――空気は血の色をして閃いた。
「畜生」
「右だ」
カチン――カチン
火花は散った。
サルフィユは背撃を食って、身体の中心は落下に奪われた。瞬間、彼はもんどりうって、両手でしっかりと綱を掴んだ。綱は大波を打って、空気を裂いてはげしく揺れた。
ペテロも亦、はずみを食って転落した――しかし彼は頭部を倒にして、足をもって綱にぶらさがった。綱は弾んで鳴った。
拍手
鯨波
観客は荒された丘の畑のように乱れ、どよめくままに鯨波とともに総立になった。
渦巻く声――
渦巻く声――
高翔する声――
空気は意識あるもののように鳴った。
この記念すべき光景――
この記念すべき言葉――
狼煙のように、サルフィユの言葉は空中へ突進した。
「満場のみなさま、御覧下さい。ペテロの靴の踵に附いている金具を御覧下さい。ペテロ君が、きょうまで、綱の上で暮して来た金具を御覧下さい。おれよりもすぐれたようなふうをして……」
彼はこう語り終って、空を見上げながら自分でも解らないことを低い調子で独り言していた。そうして彼等二人は、いままで思い思いの考えごとを楽しんでいたかのように、無言のままでしかも顔を隠し合いながら、淋れてゆく秋の庭を眺めていた。
「ペテロとサルフィユとの心理は一応呑込めるが、話としてもその表現はイージーゴーイングだね、しかし大へんすばらしい思いつきだよ……」
彼の親友青沼白心は、突然投げつけるように言って、折り立てた膝の間へ自分の顎を挟んで、庭の隅の方を〓めていた。
「思いつき……書けるかね?」
「ふむ、イマジナティヴ・コンポジションと言った方がいい、書くとするなら……」
「ふむ、しかしこれは、おれがいままでに見た映画のつぎはぎさ、本心を言うと。で、おれは(夢に見た映画)と題をつけておいたぐらいだ。形式についてもかなり作意したつもりだ。いま話したあのまま書くつもりだ。それにしても純然たる竊盗かも知れないが――くだらないテイマでね、うっかり書いてしまうものなら子供じみたモラル風の味の外はでそうにもない、それともそんな味さえ消えてなくなるかも知れない。焦点がなくなって。つまりやぶにらみになって……」