彼はいままでに思ってもみなかったことを言ってから、かすかに忍び笑いをした。それは彼自身のためにであった。そうして彼には、柄にもなく大仰なことを言ってしまったことが、劇しく後悔されはじめた。彼の言ったことは、すべて過失として後悔されはじめた。彼は出来るだけの機会を捉えて親んで来た所謂イマジナティヴ・コンポジションが、たった一言で無惨にも蹴散らされたと思えば、それまでのことであるが、蜂の巣のように破れている頭を信じている自分が情なく感じられた。そうして彼は未だに彼自身の自惚れに酔うていないこともなかった。
そうしてあのコンポジションのうちに、ひょっこりと思いついたあの気の毒なウィリイこそ彼自身に外ならないではなかろうか。ところで、あんな筋の話は、所々方々、いたるところに捨ててあるものだ。それを彼はいかにも自分が作意したかのように言いふらした。彼は親友の気持を欺いてもいいと思うほど、彼自身の虚勢が大切であると考えていたのであろうか。それにあの気の毒な少年は、彼自身の対象として、直面的に見、極く簡単にではあるが、かなり貴重な置地においてある。勿論それはあれだけの説明では足りない、と彼は考えている。しかしいくらかは何事かを訴えるだけの力は含まれていないこともない。それともそんなことは少しもないのであろうか。神のような心をもっているあの少年が、彼自身と同じくあらゆる機会を取り逃がしている。少年は何事をかなそうと考えている。家を逃げ出してサアカスへ加入させて貰うことを無想しているのかも知れない。少年は果して何を考えているのか。しかしウィリイは泣き笑いの生活で満足しているらしい。これは兎に角として、彼は親友の言葉でかなり機嫌を悪くした。彼は親友をいままで見誤っていたのであろうか。しかし彼は親友の言葉を意地悪く受けいれてみたとしたところで、どうして悪かろう。そうして若しも彼が親友を欺いたとしても、彼自身の虚勢は本物の虚勢であったろうか。それが果して本物であったとするなら、それこそそれは、嫉妬の感情などを持つも恥かしい彼が、自分の親友に抱いた嫉妬の感情ではなかろうか。そうして彼は僅かばかりの考えと僅かばかりの感受性とをもって、幻の表現に過ぎないこの人間生活のなかから、あらゆるものを見た目だけで確実なものであると見取ったこのことを、彼は恥かしく思いはじめた。彼はものの影――言葉の言葉、動作の動作――を見極められないことを情なく思った。彼は重々しい霧のなかを彷徨うているかのようであった。突然、彼は人の歔欷を耳にしたように感じた。その歔欷は何処からともなくかすかに流れてくるともなく彼自身の胸のなかへ深く泌み込んできた――彼はただ一人淋れはじめた秋の末の庭先の縁へとりのこされていた。親友は彼一人をそっととりのこしてそこを立ち去っていた。――そのことに気づくと、彼は自分が噎び泣きしているのであると思うより外はなかった。彼は自分の噎び泣きさえ感じないほどの反動的の静寂のなかへ浸り切って、無意識のうちに噎び泣きしていた。
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彼が東京のイルミネイションを見なくなってから二週間以上にもなっていた。彼のいま住んでいる町――東京に接続した西北の町は、秋の荷の往復でせわしい。遠くの森の色は色褪せはじめた。秋の季節も過ぎ去ろうとしていた。そうしてこの間にあって、彼は田舎の母親へ数回手紙を出しそこねた。――身のおちつくまでお待ち下さい――というのが、彼の母親への文面の主要なるものであったが、しかし彼にはどうしてもそのことが書き流せなかった。そのうちについ書くことが消えてしまい、そうしてとうとうそれは忘れるともなく全く忘れ果てしまった。
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私には悲しく思われます。あなたが決して嘘を申されたとは思いませんが、此度あなたのなされた態度は無情なものです。私は親切を売物にしたのではありませんが、すべて水の泡となって消えたのでしょうか。善は急げとか申して居ります。一刻も早くお話のこと実行なされては如何です。母上からは三度程お手紙がありました。……
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彼は横に腹這いながら美角夫人からの附箋づきの手紙を読んでしまって、思わずも……――これは全く――……と、訳の解らない一種の不快をおさえるかのように、彼自身へ言ってみた……――おれは母の信用を質入したようなものさ。ところで、まだその期限は切れそうにもないぞ。――……
彼には最早自分の母親を呼び寄せるだけの望みも楽みもなくなっていた。彼の心も身もともに、闇が冷たい風とともに狂おしくひしめき合っているそのなかに彷徨うているかのようであった。
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南と北から家屋が建てこめているため、常に日光に遮られている薄暗い道路の行当りに、芥溜が見える、そこにミノルカではないが大きな黒い一羽の鶏が餌をあさっている。彼はそこを目当に歩いている。そこまではかなり長い道程があるらしい。左右の家は書割舞台ででも出来ているかのように、絶えず震えている。歩いている彼ははたと立ち悩んだ。彼の足元には五銭白銅貨が、一ツ、二ツ、三ツ、四ツ、……十一、十二、十三と数えただけおちていた。鈍く光って彼の瞳をひいた。彼はその白銅貨を拾おうともせずに、頸を傾けながら歩きはじめようとした。その時彼は芥溜の方へ向って、左手にあたる一軒の屑物屋を見つけた。蒼白い顔の小娘が障子の穴から戸外を覗いていた。彼は彼女をちらりと一瞥した。彼はびっくりした――この瞬間、彼の暁の夢は音もなく影絵のように崩れて消えてしまった。
彼はひょっこり夢みたこの夢を余り気持のいいものとは思わなかった。十三個の白銅貨は、期せずして彼自身の悪い兆を予告されたようなものであった。しかし彼は奇妙な興味を唆られない訳でもなかった。
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その日の午後遅く、太陽がまだ空に輝いていたころ、彼は自分の親友の家へ来て以来、はじめて外出する気持になった。
彼はそのへんの医者ではないが、人力車に乗ってみたいと思った。大たいこの考えは何処から湧いて来たものか、彼自身にも解らなかった。それにしても妙な思いつきであると思った。これはてっきり彼が未だに暁の夢に憑かれている証拠ではないかと思われないこともなかった。彼は車へ乗ることを止めてしまった。
彼が半ヶ月も前まではよく歩きつけていたその通りへ彼自身の姿を見つけた時、彼は一種の暗示にかけられているのではないかと思った。その瞬間、彼は突然に思い出すことがあって、自分の路をもと来た方へ引き返した。そうして彼はいままでに一度か二度ぐらいは通り合せたことのある、その裏通りの密集家屋へ誘いこまれて、一歩毎にめりこむような路上を足早に過ぎて行った。彼は自分が逃れているという気持に逐いかけられていた――彼の行手は不意に妨げられた。母の手を離れた小児が路傍へ這い出て来て泣き叫んだ……と、彼の靴は地面を離れなかった。彼は踠いた。その刹那、彼の目前には、色あざやかに影絵のようなものが浮動した。頬のこけおちて、瞼のたるんだ、見るからに生気のない若い男が、無意識というよりも故意に、彼の足元を塞いでいるその小さな人の子を撮みあげて、傍の溝のなかへ捨てようとした。彼は躊躇いがちに、その男を掴えた。同時に彼は徐ろにその小児を拾いあげて、途方に暮れた。その時彼の両手でしっかりと支えられていたその小児は、誰か他の人のために無理やりに引きとられていた。彼は驚き以上に戦きを感じた。――彼の目前には、今朝、彼が夢に見たと寸分変りない、あの蒼白い顔色の小娘が佇んでいた。そうして不潔ではないが色褪せた花形模様の着物を着ている彼女は、いまは泣き止んでいるその小児を抱いていた。
彼は淡い気持から彼女をなつかしんだのであったが、一言も物を言いかけなかった。彼には何事かが予想されるように感じられた。それにしても、あの若い男、あの頬の恐ろしくこけた男、あの瞼の垂れ下った男は、一たい誰であったろうか。一たい何処から現れて何処へ消えて行ったのであろうか。こう考えると、彼は自分を嘲弄した自分の敵のように、彼自身を嘲弄してみたくなった。
しかし彼は真面目に考えてみなければならなかった――あの蒼ざめていじけきった醜い男は、一たい何者であったろうか。彼自身の敵であったろうか。しかしどうみたところで、あの男は彼自身によく酷似していた。それならあの男は、彼自分のドッペルゲンゲルであったろうか。それにしても、彼は現在離魂病をわずらっているであろうか。兎も角、あの男は、一たい何の目的で、あの場へ現れたのであろうか。彼を苦しめるためにか。小児を殺す目的であの場へ現れ、その罪を彼へなすりつけるためにか。それならそれは彼の敵の仕業であるに違いない。――こう考えながらも、彼は彼女の後へついて、彼女の家まで行った。彼女の家は、彼の夢とは多少の相違があったにしても――そこは屑物屋ではなかったが――略相似た様子だった。玄関のない出入口を持っていた。彼女は彼が無断で他人の家へ近づくのを咎めはしなかった。彼女は彼を振り返ってみた。うちみたところその顔は、十七八にも見えたが、その眸ざしは小児らしく悲しそうに見えた。そうしてその飾りけのない眸は、見栄えはしなかったが、どことなく気品のある彼女の顔につりあっていた。この様子は真直ぐに彼自身の胸へひびいて泌みこんで来た。
彼は彼女の様子を覗いながら、とっつきの障子の隙間からそっと内のなかを窺ってみた。その上り口から直ぐの薄暗い部屋には、人の動く気配がしたと思うと、力のない咳が彼の耳をコホンコホンと打った。
「姉さん!」
彼女は床のなかの人を呼びかけて、抱いている小児を、その床のなかへしずかに押しこんでやった。
「部屋を借して下さいませんか。」