四
此中臣氏が、宮廷に於ける男性のみこともちであつたのに対して、別に又、宮廷の婦人にも、一種のみこともちらしいものがある。推察するところ、此等の婦人たちは、口でみことを伝へたであらうと思はれるが、其が後に、文書の形に書き取られる様になつたのが、所謂、内侍宣・女房宣であらう。後期王朝になると、かういふ婦人たちを、みこともちとしての資格を持つてゐるもの、と考へてはゐなかつたらしいが、江家次第の類を見ると、まだ中臣女・物部女などの記載があつて、殊に、中臣女が屡、目に著く。此記録の書かれた時分には、既に固定して、無意味となつて了うてゐるが、これは元来、天皇陛下の御禊に陪して、種々のお手助けをする女である。
そこで、考へに上るのは、古い時代の后妃には、水神の女子が多い事である。私は近頃、水神及び、水神の巫女なる「水の女」の事を考へてゐるが、不思議にも、天孫降臨の最初のお后このはなのさくや媛だけは、おほやまつみの娘であるけれど、其以後の后妃は、垂仁帝あたりまで、大抵、水神の娘である。さうして、さくや媛すら「水の女」の要素を十分に持つてゐられた事が窺へるのである。要するに、出雲系の神は皆「水の神」又は「水の女」で、試みに、すさのを・おほくにぬしの系統を辿つて行くと、大抵水神であることを発見する。とにかく、代々の后妃に出雲系、随つて、水神系の多い事は、事実であつて、此で見ると、代々の妃嬪は古く皆、水神の娘の資格で、宮廷に上られ、更に、出雲系の女の形式を以て、仕へ始められたものといふ事が、出来さうなのである。
此に関聯して、一つ不思議なことがある。それは垂仁の巻に、后さほ媛が、兄と共に、稲城の中で焼け死なうとされた時に、天皇が使ひを遣して、「汝の堅めし美豆乃小佩は誰かも解かむ」と問はしめ給ふと、さほ媛は美智能宇斯王の女の兄毘売・弟毘売をお使ひになつたらよからう、と奉答されてゐる一事である。此は、従来の解釈では、后となるのだから、小佩を解くのである、といふ風に解せられてゐるが、其考へは逆であつて、小佩を解くから、后になるのである。小佩を解くのは、禊に随伴する必須の条件であつて、禊と小佩を結び堅める役目と、妃であるといふ事とは、何処までも循環的の関係である。而も、第一には、水中から現れて、天子の物忌みの小佩を解く役の人である。