胸の上にコップを置いて白い、然しやきつくやうな両手でつかんで、氷のかけを咽喉に落した時、彼女は漸く浮き上るやうな気持ちになった。そして極めてわづかの夢を見ることが出来た。
それから、お葉は廊下の足音を出来るだけ気をつけた。そしてその足音がもしも、扉の前にバタリと止って、扉の影からそうっと白衣が見えた時には、その看護婦の空想的な瞳をすがりつくやうに捕へた。そしてコップにまたわづかの氷を願った。彼女は目覚める度に時間を聞いて、時があまりに静かなのに不安でならなかった。
『あゝまだ夜があけない。』お葉は眠らないので疲れ切ってた。しかし夜が明ければ自分が疲れからすっかり逃れる事が出来、さわやかに美しい日が来るやうな気がした。
あを向けに寝かされたまゝ起き上る事の出来ない日が二週間もつゞいた。その間はすべて灰色に曇った日のやうに思はれた。青い空も彼女の目には入らなかったし、明るい光線も彼女の頬を照しやしなかった。そしてあを向けに寝てゐる脊中の痛さに目をうるませて、天井を見てゐた。そして天井を見ながらも、夢の中のやうにやがて来る幸福といふものを考へて居たのである。幸福といふものがどんなものかは知らない。彼女は小さい時、朝日が山の上から上る時に、幸福が来やしないかと、静かに嬉しい心で見てゐた。また夕日が山のかげにかれる時、あの遠い山の影には、幸福があるやうな気がした。そして彼女は少女になった。併しまだその幸福といふものを同じやうに考へながら、必ず自分に近よって来るやうに思ってるのだ。夜が明けると雨がしとしと降って居た。曇った硝子ごしに、前の棟の屋根の上の空気ぬけの塔が、霧から晴れるやうにはっきりとして来て、いぶし銀のやうな空を彼女は見た。そして窓際に椿の葉がつや/\と輝いて居た。お葉は母親から渡された、ぬれたタオルでもって自分の顔を軽く拭って、母親の廊下に出て行ったあとを、茫然とあを向けに枕元のコスモスの花を見た。うすいろの花は、室内のこの静寂な空気の中にも堪へないやうに、ふるへてゐるやうであった。しかし幸福は室内の何物にも見えなかった。すべての空気が平和に沈滞してゐた、そしてなにか幸福のありさうな、いゝ事のありさうな明日は、矢張り変化のない今日であった。そして自分の身は動かず病床に横たはって居る。
お葉は、堪へられない淋しさと悲しさに捕へられた。そしてその淋しさや悲しさに捕へられながらも、廊下の外にする看護婦の笑声などには理由もなく心を傾けた。そして看護婦があわてたやうに飛び込んで来て笑ひながら、
『如何で御座います、昨晩おやすみになれまして、』と言って来るのを待った。
御飯がすむと、お葉はまたすぐバタ/\といふ廊下のスリッパの音に耳をすまして、御廻診をまつのである。毎日々々耳をすますうちに、カーキ色に赤い条の入った軍服のズボンを出して廻診衣を着た、いつもにこ/\した赤い顔の軍医のスリッパの音を呑み込んでしまって、彼女の見当は当らない時はなくなった。そして、バタリと扉の外に足音が止まった時には、おのづと緊張した愉快な顔色になって居た。
『如何です。お変りありませんか。』
軍医は体温表を一寸見て静かに言った。お葉はその時きっと前の晩の足の痛かった事や、今朝の脊中の痛かったこと等が、なんでもない事のやうに消えてしまふので、
『いゝえ、別に、』と彼女は笑った。
彼女は、楽しい夢ばかりを見た。友だちと手をつないで、賑やかな夜の街のきらびやかな飾窓をのぞいた事や、大ぜいで野原に遊びに行って楽しかった事などが、彼女の夢の世界に表はれた。お葉は、この病院に入る前、丁度椿のはなが咲く頃から床についたきり、土を踏むといふ事は勿論、畳を歩くといふ事さへ、柱によって立つといふ事さへ出来なかったのだけれども、夢には指の先すら痛む事はなかった。床の上にあを向いたまゝ空を見てると、枯れたやうな桐の木からグン/\と芽が出て、若々しい青葉がヒラ/\と風にゆられた。そして椿の花が次から次へとくづれて、土に落ちて行くのであった。彼女は、その時かうして床につく前に、母親と痛い足を引きずりながら九段の坂を降りて、神田の神保町の洋傘屋で買った青磁色の洋傘が、一度もさゝれずに押入の中にしまってある事を思って、急に見たくなった。それですぐ母親にパラソルを出して貰ひ、それをひろげて後向に畳の上に置いて貰った。お葉はそれを横になってぢっと見た。縁から入って来て洋傘の上に流れる日の色をも見た。そして彼女は丁度野原に遊びに行って、遠く草のなかに自分の洋傘を置いて花をつみながら、振りかへったやうな心持がした。そして彼女は茫然した。その頃丁度彼女の妹が元気よく、靴の音を高く響かせて、生垣をめぐって帰って来るのであった。その靴の音が高く響いた時は、もはやお葉の眼はすべて曇って霞のやうにかすんで、なんにも見えなかった。涙が閉ぢた目蓋から、ボロ/\と頬をつたはった。
それからお葉は、その洋傘を寝たまゝ手に持たせて貰った、そして自分で名残惜しさうにピチンと閉ぢて、早速丁寧に押入にしまはせたのである。けれども、彼女は決して一生自分が洋傘をさして、二つの足で気持よく裾をさばきながら歩く事が出来ないとは、夢にも思はなかった。赤い日を見れば、今にもその土を気持よくふむ事が出来るやうに思った。
やがて、その頃彼女の寝てゐる、彼女の窓の格子から遠くの方に、真赤な、真赤な花が一ぱにさいた。それが毎日日の照る日も、雨の降る日も、燃えるやうに彼女の眼に入った。
『何んの花。』彼女はいつも誰ともなく訊いた。けれども誰もそれに答へる人はなかった。彼女は、どうしてもその花が知りたかった。そしてあの花はなぜあんなに赤いのだらうと考へた。
『欲しい。』彼女はまた言った。
『落ちたのでもいゝから、たった一つでもいゝから――。』
『柘榴だらう。』誰かゞさう言った。そして、その花はだん/\青葉にかくれて行った。そしてお葉は、水色の幕を垂れた釣台にのって、朝夕にニコライの鐘が枕にひゞく病室に入れられた。途中、『母ちゃん、お葬式が通るよ。』と赤い羅紗の靴をはいた子が、家の中に駈け込んだのを、お葉は幕間から見てゐた。それは繁華な電車通りであった。
そこからこの釣台はまた煉瓦塀をまわって、この病室に入れられた。そしてもはやすべて、彼女の夢に見る世界は、一生近づく事なく隔ってるのだけれども――。
やがて、彼女は気づかはしさと、ある淡い喜びとを持って輸送車に運ばれて、繃帯交換に行った。そして方々の室から出て来た輸送車の患者が、控室の前にたくさんあつまった。
お葉は、まだ決して足を切断したのだとは思はなかった。手をいぢり顔をなでてすべての人と異る所のない完全なものだと思った。そして、あの中庭の芝生の上を自由に散歩する事も出来るし、愉快にあのベンチによる事も出来るんだと、庭の方を見て居た。そして、ふいと眼を横にやった時、窓際に置かれた輸送車の上の女が、なつかしさうに笑った。
『あなた、少しはよろしくって?』
お葉は、驚いて、やうやく、『えゝ。』と答へて赤くなった。何といっていゝかわからない。彼女の輸送車は、そのまゝ交換所に引き入れられた。あの人は、もう交換がすんだのか、すまないのか、どの部屋に帰ったのやらも解らない。
彼女は、その一日その女の人のことを考へた。そして重たい本を胸の上に開いて、彼女は五六頁を読んだ。
それから、彼女は夜中にいく度となく目を覚ました。そして暁がすべての幸福を彼女に齎すやうに、只一秒も早く空の白むのを待った。けれどもあまりに短時間内に幾度も目をさました時には、もうこの暗い夜が再び明けないのぢゃないかと恐れながら、白く垂れ下ったカーテンの奥に目をすゑて、しのびやかに訪れて来る暁の足音を聞かうとした。
カラ、カラ、……カラカラ、……カラ……カラ彼女は、そしてこの音を遠くの闇の中から見出した時、もはや暁が近いと、断定する事を踌躇しなかった。車の音だ。それは確かに車の音だ。あけぼのゝ白ずんだ空の淋しい道を静かに、カラ、カラカラ……と車の音も絶え/″\に幾台かつらなった車の音だ。お葉は真暗な夜のなかに、両手を胸の上に置いて、車の音を聞いた。
そして、はやく看護婦が、カーテンを巻き上げてくれゝばいゝと思ひながら、朝の冷たい白い清らかな空気が、自分の蒸されたやうな頬をつたひ、静かにねばりついたやうな生際の毛をゆるがす嬉しさを考へた。彼女は、それから、夜中に目覚めて暁をまつ毎に、その音を聞いた。そして朝の近いことを考へたけれども、その車がなにをする車で、なんの為めに何処に行くのか、そんな事は少しもわからなかった。
お葉は、その日も、また次の日も交換場で、この前言葉をかけた見しらぬ女に逢った。彼女は廊下の窓際に斜に置かれて、小雨のふる中に垂れ下った梧桐の葉の淋しさを眺めて居た。側には三十位の女が輸送車の上にあを向けにねて、自分の手の色をぢっと見てゐた。
その時、交換場の中から、その女の輸送車が引き出された。その女は紫の着物を着て淡紅色の袖口で顔をおほうて居たが、彼女の前に来て、ふっと驚いたやうに目を見開いた。そして優しくなつかしさうな瞳をしてお葉を見た。
『今日は、およろしくって?』
『えゝ。』彼女はまたあはてゝ、何も言ふ事が出来ずにうなづいて笑った。輸送車は、もう通りすぎてしまってた。お葉は、ベッドに戻ってからも、紫の着物を着てた女のことばかり考へられた。しかし病室は牢獄のやうに、一つ/\厚い壁にさへ切られて、隣の人さへわからない。
彼女は、その女の美しい眼を考へた。美しい手を考へた。そしてその女は必ず幸福だらうと思った。そしてその女は物語のやうに美しい恋をしてる人だと考へて、なつかしくってならなかった。そして彼女は一日でも逢はないと心配でならなかった。丁度恋をしてるやうに物足らなくって淋しかった。そしてその時には、お葉には今病気をしてるといふ自覚は、ほとんどなかった。そして彼女がいまどれ丈けの絶望と、かなしみに捕へられるかもしれなかった。只疲れては眠り、人の顔を見ては微笑し、本を読んではいろいろ幻のなかに浸って暮らした。そして母親は、彼女がすべての経過がよく悲しみに捕はれないのを喜んだ。看護婦は彼女の心の強いのをほめた。しかし彼女は、自分の現在を少しも知らなかった。