その晩、彼女は昼間の眠りの為めに夜は早くからめざめた。お葉は、いろ/\と昼逢った紫の女に送る手紙などをローマンチックに考へながら、前から車の音をきいてはゐたが、あまりに夜が長いのに、起き上る事の出来ない身体の痛みに悶えてゐた。
『ね、お母さん。』お葉は、母親が起きてるやうな気がしたので、何を言ふともなく声を出した。
『あの、車の音がきこえるのに、なか/\夜が明けないんだもの。』
『車?』母親は耳をすました。
『雨が、また降り出したんぢゃないかい。何時頃だらう。』母親が時計を見た時、まだ漸く一時半であった。
『まだ、なか/\だよ、もう少し枕をたかくしたら寝やすいだらうね。』
『ぢゃ、お母さん、あの車はそんなに早くから歩いてるの。』お葉には、あり/\と淋しい道を音をたてゝ引かれてゐる車が、目に見えてるのだ。母親は、お葉の枕を高くしながら、『あれは、雨だれが落ちる音ぢゃないか。』と言って不思議さうに娘の顔色を見た。
翌朝、久し振りに美しく晴れて水のやうな秋の光が、すべてを祝福するやうに流れてゐた。そして雨にぬれた木の葉がつやゝかに光ってゐた。お葉は御飯をたべ終った後、漸くの事で決心して書いた手紙を看護婦にたのんで、何処かの病室に一人でゐる紫の女に送った。が、すぐあとで彼女は後悔した、そして恥しさで赤くなった。紫の女は尊い詩のやうな美しい女なので、とても自分などの近よる事の出来ない人だと思ったのだった。やがて、看護婦は、細い封筒を持って帰って来た。お葉は、それをなにか恐ろしい出来事でもあるやうに気遣はしく、そっと開いてみたが、それはいつも輸送車の行きずりにかはす、『あなた、少しはおよろしくって、』といふやうな、優しさとなつかしさのある、そしてものたりない短い手紙にすぎなかった。お葉は、淡い巻紙にやさしく美しくかゝれた手紙をいく度も繰り返して、すべて自分の存在を想像のなかにうづめてしまった。彼女はうれしかった。それから二人は、その日の事を書いては送った。看護婦の手を経て、歩く事の出来ない二人はなつかしい話しをした。
ある日曜日に、お葉は起き上る事を許された。彼女はその時きれいなダリヤの花を持って来て呉れた友だちの帰ったあとで、母親にたすけられて、床の上におき上った。少しの嬉しさも喜ばしさもなかった。足が電気のやうに渦をまき、円い玉のやうに一秒も停止してる事が出来なかったので、涙をためて、又床の上に横になった。そして前のやうに眼の上に空を見、胸の上にダリヤの花を置いて、一つ/\を手に持ってぢっと見た。そして彼女は起き上る事が出来ないと思ひつめながら、あを向けに母親の顔をうらむやうに見詰めてゐた。けれども、毎日一度は看護婦か母親によって起き上ることをさせられた。下から見た部屋を起き上ってたてから見たすべての異り方や、目の廻るやうな不思議さは、次第々々になくなって来た。そして開け放した扉の前を通る人などを見る為めに、自分から起き上る事を母に頼むやうになった。
廊下を通る様々の人、それを起き上って見てるのが、どんなに物珍らしかったか解らない。そして、毎日唐人髷を結った下町の娘が小唄を口ずさみながら通るのが、どんなに彼女の心を引いたらう。
さうしてゐるうちに時がたって行くと、お葉は歩く事を稽古しなければならなかった。歩く稽古、歩くのでさへ稽古しなければならないとは、どうした事だかお葉には解らない。黒塗の丁字杖がベッドの前に置かれてからは、彼女は毎日恨むやうな瞳をすゑて、どことなしに見つめて居た。あれをついて私はどうして歩くんだらう。私が足を切断したなんて、お葉は、その事ばかり考へた。そして看護婦が来る度に、どうして手術をするかとたづねた。
『いえ、そんな事はおたづねにならない方がいゝんですわ。』
看護婦は、みな話さなかった。そしてお葉の手の美しい事、髪の毛の多いことなどを話して彼等は帰って行った。お葉は悲しくってならなかった。そして自分のはかない身の上を書いて、紫の女に送ったけれども、やはり淡いやさしいそして物たらない事しか、お葉には書いてよこさなかった。
『今日は。』彼女は毎日訊いた。
『えゝ手術日。』看護婦は、さう言って帰りに寄る事を約して出て行く。思はずも今日の手術の様子を話して、問はれたまゝに切断の事なども言ひかけようとするのであった。すると、側の一人は必ず、お葉が目を見はって、熱心に聞いてるのを見て、
『およしなさい。そんな事は、みんなみんな嘘なんです。』と言って止めた。けれども、彼女は、肉を切って、骨をのこぎりで引いて、皮を縫ひ合せて、と考へて見たけれども、どうしてもそれが人間の生きた肉体に行はれるものぢゃないと思った。
さうしてるうちに、お葉の歩くべき日が来た。
『さ、今日は少し歩く稽古をしませうね。』
けれども、彼女はどうしても恐ろしくって、ベッドの下に足を降すことが出来なかった。
『あ、草履を持って来ませうね、一寸おまちなさい。』
看護婦が急いで行って、一足の紅緒の草履を足元にそろへた。お葉は、慄へながら血気のないやうな、白い死んだやうな片足をそっと降した。
『まあ、片方でよかったのに、私もよっぽど馬鹿な――。』
草履を持って来た看護婦が、その時大声で笑った。彼女は恐ろしさに慄へながら茫然とその女の顔を見た。その時、室内の日が急にかげって、すべてが淡暗く物悲しく見えた。どうして自分が床の上に立上るなんていふ事が出来よう。彼女の足は、ベッドから垂れて、ぶる/\とふるへてゐた。
『さ、私につかまって立ってごらんなさい。かうして、杖を両脇にはさんで、』
彼女は杖をしっかりつかんだ。そして立上ったけれども、看護婦のおさへた手が少しでもゆるむと、浮草のやうにくら/\と動いて、眼は夢のなかのやうに物事をはっきり見ることが出来なかった。
『さうして、一寸、一寸、飛ぶんですよ、しっかりつかまへて上げますからね。』
彼女は、さういふ看護婦を恐れた。飛ばなきゃならないと思ふけれども、どうして足を浮かしていゝものやら、彼女は足の運び方を、すっかり忘れてゐた。そして、やうやくはっと飛んだと思った時には、わづか彼女の足元は一寸位しか動いてゐなかった。
お葉は、床の上に丁字杖を持ったまゝ天地に頼りないものゝやうに涙ぐんだ。歩くといふ事が、これ丈悲しい恐ろしい頼りないものとは思はなかった。ベッドの上に、早くベッドの上に自分の身体を毛布のなかにつゝんでしまひたい。看護婦は、彼女をひきずるやうにして、漸く窓ぶちにつれて行った。わづか一間、それがお葉には海山の隔りのやうにも思へた。初めて窓から空を見た時、その高さと広さと、美しさは驚くべきもので、お葉は涙を持って仰ぐより仕方がなかった。そして赤い椿の花は、土の上から空に向って、自由に幸福に咲いてゐるのであった。
地と空との間、その間の光り、それが、すべて意外であった。そして向ひ側の廊下がどんなに美しく見えて、白衣の人の姿がどんなに清らかだったらう。お葉は、初めて見た窓の外の景色はすべて感激にみちてゐた。けれども、それだけ、どんなに自分の不安定な、この活力にみちた空気の中を、歩く事の出来ない身が悲しまれたことか。
次の日、お葉はまた浮草のやうにたよりない身体を杖と人とにさゝへられて、扉のそばに立たせられた、そして又、はてしないやうな廊下の末を見やって、物悲しい心になった。彼女は、今まで自分の病室の前にこんな果てしないやうな廊下のつゞいてる事を知らなかった。淋しく涙にうるんでるやうに光る廊下の果しなさに驚いた。
毎日一歩でも多くお葉は歩かねばならなかった。けれども、どうしてもその廊下に出る事はむづかしかった。夜、彼女は初めて看護婦におさへられて、廊下に出た。電気が、わづかに足元をてらして、開いた窓の暗い空から星が青くのぞいてた。一歩、一歩、杖の音におどろき、足の音に驚いて、引きずった着物の裾につまづきながら、現のやうに歩いて窓際によったけれども、涙は幻のやうに彼女の瞳をつゝんで、淡赤い月の行方をお葉は見る事が出来なかった。
お天気のよい午後になると、それから彼女は廊下の寝椅子の上に毛布をかけて横になった。そしていろ/\の物語に読みふけった。日が水のやうに爽やかに流れて、中庭にはすべて秋の凋落は、少しも見られない。
木の葉は緑にかゞやき、赤白の山茶花や椿が美しく咲いてるので、ハラ/\と日に輝いて落ちる木の葉に病む身をかなしむ事も出来なかった。ベンチとベンチの間にはベッドが置かれて、真白い薬を塗った石膏のやうな病人が日光浴をしてゐる。
お葉の心はいま春である。かうしてる間、彼女はなんの悩みも苦しみもない。自分の肉体が如何に変化し、如何に自由を失はれてるかといふ事も考へる事が出来ない。木の青い若芽が、静かに日光を吸ふやうに、うっとりと夢の中に呼吸してゐた。
青白い日蔭の花が、淋しい秋の日を受けて、静かな夢を見てるのもわづかの間である。お葉はそのはかない夢を見つづけて、寝椅子の上にあるのも只しばしである。母親は、前から廊下の柱によって、夢見する娘の為に、悲しい思ひをたぐってゐた。
(『新小説』大正4・1)