十五 彼等
彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。
十六 枕
彼は薔薇の葉の匂のする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでゐた。が、いつかその枕の中にも半身半馬神のゐることには気づかなかつた。
十七 蝶
藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺つて行つた翅の粉だけは数年後にもまだきらめいてゐた。
十八 月
彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた。彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)今まで知らなかつた寂しさを感じた。……
十九 人工の翼
彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷かな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」の哲学者に近づいて行つた。
人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴオルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。
彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人も忘れたやうに。……
二十 械
彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。
二十一 狂人の娘
二台の人力車は人気のない曇天の田舎道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の来るのでも明らかだつた。後の人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して恋愛ではなかつた。若し恋愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける為に「兎に角我等は対等だ」と考へない訣には行かなかつた。
前の人力車に乗つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の為に自殺してゐた。
「もうどうにも仕かたはない。」
彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎悪を感じてゐた。
二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蠣殻のついた粗朶垣の中には石塔が幾つも黒んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を軽蔑し出した。……
二十二 或画家
それは或雑誌の揷し画だつた。が、一羽の雄鶏の墨画は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの画家のことを尋ねたりした。
一週間ばかりたつた後、この画家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を発見した。
或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍に忽ちこの画家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神経のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自画像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ発見は彼を憂欝にするだけだつた。
「もう遅い。しかしいざとなつた時には……」
二十三 彼女
或広場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。
彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。五分ばかりたつた後、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」と言つて頬笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明い広場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる為には何を捨てても善い気もちだつた。
彼等の自動車に乗つた後、彼女はぢつと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顔はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。
二十四 出産
彼は襖側に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤児を洗ふのを見下してゐた。赤児は石鹸の目にしみる度にいぢらしい顰め顔を繰り返した。のみならず高い声に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤児の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――「何の為にこいつも生まれて来たのだらう? この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつも己のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」
しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。
二十五 ストリントベリイ
彼は部屋の戸口に立ち、柘榴の花のさいた月明りの中に薄汚い支那人が何人か、麻雀戯をしてゐるのを眺めてゐた。それから部屋の中へひき返すと、背の低いランプの下に「痴人の告白」を読みはじめた。が、二頁も読まないうちにいつか苦笑を洩らしてゐた。――ストリントベリイも亦情人だつた伯爵夫人へ送る手紙の中に彼と大差のない譃を書いてゐる。……
二十六 古代
彩色の剥げた仏たちや天人や馬や蓮の華は殆ど彼を圧倒した。彼はそれ等を見上げたまま、あらゆることを忘れてゐた。狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さへ。……
二十七 スパルタ式訓練
彼は彼の友だちと或裏町を歩いてゐた。そこへ幌をかけた人力車が一台、まつ直に向うから近づいて来た。しかもその上に乗つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光の中にゐるやうだつた。彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた。
「美人ですね。」
彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往来の突き当りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。
「ええ、中々美人ですね。」
二十八 殺人
田舎道は日の光りの中に牛の糞の臭気を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。道の両側に熟した麦は香ばしい匂を放つてゐた。
「殺せ、殺せ。……」
彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は如何にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。
すると黄ばんだ麦の向うに羅馬カトリツク教の伽藍が一宇、いつの間にか円屋根を現し出した。……
二十九 形
それは鉄の銚子だつた。彼はこの糸目のついた銚子にいつか「形」の美を教へられてゐた。
三十 雨
彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。寝室の窓の外は雨ふりだつた。浜木棉の花はこの雨の中にいつか腐つて行くらしかつた。彼女の顔は不相変月の光の中にゐるやうだつた。が、彼女と話してゐることは彼には退屈でないこともなかつた。彼は腹這ひになつたまま、静かに一本の巻煙草に火をつけ、彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した。
「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」
彼は彼自身にかう質問した。この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。
「おれは未だに愛してゐる。」
三十一 大地震
それはどこか熟し切つた杏の匂に近いものだつた。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外悪くないと思つたりした。が、死骸の重なり重つた池の前に立つて見ると、「酸鼻」と云ふ言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折す」――かう云ふ言葉なども思ひ出した。彼の姉や異母弟はいづれも家を焼かれてゐた。しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯した為に執行猶予中の体だつた。……
「誰も彼も死んでしまへば善い。」
彼は焼け跡に佇んだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。
三十二 喧嘩
彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。彼の弟は彼の為に圧迫を受け易いのに違ひなかつた。同時に又彼も彼の弟の為に自由を失つてゐるのに違ひなかつた。彼の親戚は彼の弟に「彼を見慣へ」と言ひつづけてゐた。しかしそれは彼自身には手足を縛られるのも同じことだつた。彼等は取り組み合つたまま、とうとう縁先へ転げて行つた。縁先の庭には百日紅が一本、――彼は未だに覚えてゐる。――雨を持つた空の下に赤光りに花を盛り上げてゐた。
三十三 英雄
彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亜人が一人、執拗に山道を登りつづけてゐた。
ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……
――誰よりも十戒を守つた君は
誰よりも十戒を破つた君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電気機関車だ。――
三十四 色彩