三十歳の彼はいつの間か或空き地を愛してゐた。そこには唯苔の生えた上に煉瓦や瓦の欠片などが幾つも散らかつてゐるだけだつた。が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変りはなかつた。
彼はふと七八年前の彼の情熱を思ひ出した。同時に又彼の七八年前には色彩を知らなかつたのを発見した。
三十五 道化人形
彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、不相変養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた。それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。彼は或洋服屋の店に道化人形の立つてゐるのを見、どの位彼も道化人形に近いかと云ふことを考へたりした。が、意識の外の彼自身は、――言はば第二の彼自身はとうにかう云ふ心もちを或短篇の中に盛りこんでゐた。
三十六 倦怠
彼は或大学生と芒原の中を歩いてゐた。
「君たちはまだ生活慾を盛に持つてゐるだらうね?」
「ええ、――だつてあなたでも……」
「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」
それは彼の真情だつた。彼は実際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。
「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」
彼は何とも答へなかつた。芒原はいつか赤い穂の上にはつきりと噴火山を露し出した。彼はこの噴火山に何か羨望に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜと云ふことはわからなかつた。……
三十七 越し人
彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。
風に舞ひたるすげ笠の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
三十八 復讐
それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。
狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。
少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は巻煙草を吸ひながら、媚びるやうに彼に話しかけた。
「あの子はあなたに似てゐやしない?」
「似てゐません。第一……」
「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」
彼は黙つて目を反らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さへない訣ではなかつた。……
三十九 鏡
彼は或カツフエの隅に彼の友だちと話してゐた。彼の友だちは焼林檎を食ひ、この頃の寒さの話などをした。彼はかう云ふ話の中に急に矛盾を感じ出した。
「君はまだ独身だつたね。」
「いや、もう来月結婚する。」
彼は思はず黙つてしまつた。カツフエの壁に嵌めこんだ鏡は無数の彼自身を映してゐた。冷えびえと、何か脅すやうに。……
四十 問答
なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?
資本主義の生んだ悪を見てゐるから。
悪を? おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?
――彼はかう天使と問答した。尤も誰にも恥づる所のないシルクハツトをかぶつた天使と。……
四十一 病
彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず体力も衰へはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……
しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!
或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻を啣へたまま、向うの蓄音機から流れて来る音楽に耳を傾けてゐた。それは彼の心もちに妙にしみ渡る音楽だつた。彼はその音楽の了るのを待ち、蓄音機の前へ歩み寄つてレコオドの貼り札を検べることにした。
Magic Flute――Mozart
彼は咄嗟に了解した。十戒を破つたモツツアルトはやはり苦しんだのに違ひなかつた。しかしよもや彼のやうに、……彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子へ帰つて行つた。
四十二 神々の笑ひ声
三十五歳の彼は春の日の当つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出来ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。……
四十三 夜
夜はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明りの中に絶えず水沫を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歓びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらへてゐるらしかつた。
「あすこに船が一つ見えるね?」
「ええ。」
「檣の二つに折れた船が。」
四十四 死
彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死しようとした。が、帯に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの為に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちよつと苦しかつた後、何も彼もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針を検べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。窓格子の外はまつ暗だつた。しかしその暗の中に荒あらしい鶏の声もしてゐた。
四十五 Divan
Divan はもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」だつた。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。若しこの詩人の足あとを辿る多少の力を持つてゐたらば、――彼はデイヴアンを読み了り、恐しい感動の静まつた後、しみじみ生活的宦官に生まれた彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。
四十六 譃
彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた。が、フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。
絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許す訣はなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末から枯れて来る立ち木のやうに。……
四十七 火あそび
彼女はかがやかしい顔をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし恋愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の体には指一つ触らずにゐたのだつた。
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」
彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。
四十八 死
彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の体に指一つ触つてゐないことは彼には何か満足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。
それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に与へる平和を考へずにはゐられなかつた。
四十九 剥製の白鳥
彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為だつた。彼はかう云ふ彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剥いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と真実と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自叙伝の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文芸上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ気も彼には働いてゐた。彼はその為に手短かに彼の「詩と真実と」を書いて見ることにした。
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。
五十 俘
彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。