早稻田文學の沒理想
逍遙子この頃記實家となりて時文評論を作る。時文評論とは早稻田文學の一欄にして、現實を記するを旨とするものなり。逍遙子は何故に記實家となりたるか。曰く談理を嫌ひてなり。逍遙子は何故に談理を嫌へるか。曰く理の實より小ならむことを慮りてなり、理想世界の現實世界より狹からむことを思議してなり。その言にいへらく。今の談理家の言ふところは空漠にして、その見るところは獨斷に過ぎず。今の談理家はおの/\おのが方寸の小宇宙に彷徨逍遙して、我が思ふところのみを正しとし、これを尺度として大世界の事を裁斷せんとす。そのさま恰も未だ巨人島にわたらぬガリワルの如く、また未だガリワルを見ざる「リリピユウシヤン」の如く、豕を抱いて臭きことを忘れ、古井の底に栖みて天を窺ふ。かゝる小理想家の説くところ何のやくにか立たむと。
逍遙子はかく理を談ずることを斥けたり。されどその理を談ぜざるは、談ぜざるを以て談ずるなり。その作るところの時文評論は評論にあらざる評論たらむとす。その人を教ふる手段にいはく。我は實を記して汝に歸納の材を與ふ。汝が眼、汝が心はおのづからこれを歸納して、明治文學の活機を悟り、以て明治文學大歸一大調和の策を立てよ。汝の機を悟り策を立つることを得るに至るは、或は遲からむ。そは我手段の劇藥ならざるためなり、持藥たるためなりと。
時文評論を讀む人は、いづれの處よりか此大歸納力を得來たるべき。いはく心中沒理想これなり。時文評論を書く人は、いづれの處よりかその大記實法を得來るべき。いはく常識これなり、常見これなり。
常識、常見の何物なるかは、よくも知らず。逍遙子はたゞ「コンモン、センス」といふ一英語を示しゝのみなればなり。沒理想の何物なるかはシエクスピイヤ脚本評註の緒言に見えたり。その言にいはく。進化は無心なり。自然は善惡のいづれにも偏りたりとは見えず。固より意地わるき繼母の如きものとも見えねば、慈母とも見えず。さるに數奇失意の人は造化を怨み、自然を憤りて、此世を穢土と罵り、苦界と誚るなり。さて亦得意の人はこれに反して造化を情深き慈母のやうにおもひて、此世を樂園とおもへり。必竟人々の思做し次第にて、苦とも樂とも見らるゝが自然の本相なり。此故に造化の作用を解釋するに、彼宿命教の旨を以てするも解し得べく、又耶蘇教の旨を以てするも解し得べし。其他老、莊、楊、墨、儒、佛若くは古今東西の哲學者がおもひ/\の見解も、これを造化にあてはめて、強ち當らざるにあらず、否、造化といふものは、此等無數の解釋を悉く容れても餘あるなり。祇園精舍の鐘の聲、浮屠氏は聞きて寂滅爲樂の響なりといふべきが、待宵には情人が何と聞くらむ。沙羅雙樹の花の色、厭世の目には諸行無常の形とも見ゆらむが、愁を知らぬ乙女は何さまに眺むらむ、要するに造化の本意は人未だこれを得知らず、只おのれに愁の心ありて秋の哀を知り、前に其心樂しくして春の花鳥を樂しと見るのみと。
造化既に沒理想なり。造化に似たる沒理想の詩を作るものは大詩人なるべし。こゝに於いてや人にはシエクスピイヤを取り、體には「ドラマ」を取る。シエクスピイヤがバイロン、スヰフトより大なるは彼は理想なく、此はおのが理想をあらはせばなり。「ドラマ」の小説より全きは、彼は理想なく、此は作者の理想を含みたればなり。作者能く理想なきに至るときは、人に神の如くにもおもはれ、聖人の如くにもおもはれ、至人の如くにもおもはるべし。近松も沒理想なり。彼も境遇次第にては、たとひシエクスピイヤには及ばずとするも、我國の淨瑠璃作者にて終らむよりは逈に優りたる位地に上りぬらむ。「キング、リヤア」の悲劇は馬琴の作に似て勸懲の旨意いと著く見えたれども、作者みづからが評論の詞、絶えて篇中になきゆゑ、見るものゝ理想次第にて強ち勸懲の作と見做すを要せず、別に解釋を加ふること自在なり。然るに曲亭の作を見れば、例へば蟇六夫婦の性格の如き、頗る自然に似て活動したれども、作者叙事の間にて明に勸懲の旨なりといへれば、人も亦これを沒理想と評すること能はずと。
夫れ造化既に沒理想なり、作者と詩と皆沒理想になりたれば、逍遙子が沒理想の時文評論を作れるも宜なり。世の批評家はおほしといへども、逍遙子がこたびの大議論を聞きては、皆口をつぐんで物言はず。偶々物言ふ人ありといへども、唯賞讃のこと葉を重ねて、眞價を秤らむとするに至らず。(青年文學第一の成語)平生批評を專にせざる人々の中には、多少これに對して意見を述べたる人ありといへども、大抵片言隻句にして、人の心をあかしむるに由なし。おのれも大同小異の見を懷いたれば、自然、沒理想の論に少からぬ同意を表したしといふは美妙齋なり。(國民新聞)讀者の沒理想をたのみて、時文評論を評論ならぬ評論となし、記實となすと聽きて、これに服したるは漣山人なり。(讀賣新聞)シエクスピイヤを沒理想とする論、若し逍遙子が獨造の見ならば、これを歐文に譯して歐人に見せまほしといふは抱一庵主人なり。(報知新聞)この三人はおもなる讃者なるべし。撫象子のいはく。シエクスピイヤが理想はいと大きやかなりしを見て、沒理想なりといふは誤なり。シエクスピイヤは豫言者なりき。豫言者とは大理想家をいふなりと。(女學雜誌第二九〇號)これを一人の難者とす。不知庵主人のいはく。沒理想は極めて好文字なり。然れども春の屋は沒理想といふ理想を立てたるなり。是れ或は眞理に近からむかは知らねど、われ未だ遽に同意することを得ずと。(國民新聞)これを一人の蜘蟵者とす。實を記して評論に代ふる逍遙子が趣意に漣山人の服せしを、特書して表しいだしゝ正直正太夫といふものあり。(國會)これを一人の傍觀者とす。
こゝに烏有先生といふ談理家ありけり。理を談ずることを旨とする一大文學雜誌を發行せむとおもへども未だ果さず。烏有先生は何故に談理家となりぬるか。曰く記實にあかでなり。烏有先生は何故に記實にあかざるか。曰く萬有と萬念と一に歸せしむべきことをおもひてなり。造化の無理性にしてまた有理性なるを思議してなり。その言にいへらく。物に逢ひて美を感じ、物を造りて美をなす。是れ評者と作者との境界なり、美術の境界なり、文學の境界なり。美はこれを拆いて繁き意義となし、これを統べて深き考思となすべし。羅馬なる聖彼得寺塔を觀てミケランジエロが作りし雛形の美に驚くは、建築を視る眼あるものゝ皆能くするところなるべし。これを美なりと記さば、記實者の役濟むべけれど、談理者はそれにて足れりとすべからず。かの佛朗西人それがしが如く、高等靜論の算法によりて古人が不用意にして靜性の極處に至れるを看破してこそ、その美なる所以を知るべきなれ。ライプニツツが樂調の美を知るを無意識中の算術といひしもおなじ談理の境なり、若し美の義を碎いて理に入ることあらずは、審美學は起らざるべし。まだ巨人島を見ざるガリワルが實を知ることの小なるはまことにをかしかるべけれど、いまだ理に通ぜざるために論理をあやまりたる批評をなす人あらば、これも可笑しからむ。逍遙子が記實の文を讀むには、大歸納力を具へざるべからず。烏有先生が談理の言を聞くには、當りまへの理解力を備ふるのみにて足れり。
烏有先生は逍遙子が常識を貴むを聞きて、これを難じていはく。シヤフツベリイが内官論はふりたり。リイドが常識も今の哲學の程度より見るときは、おそらくは取るに足らざるべし。蓋常識は凡識と相隣せり。變を斥くるはよけれど、非凡を容れざるはわるかるべし。國利民福をもとむる便を知らむとならば、政治家として常識を説きても善かるべく、經濟家として常見を唱へても善かるべけれど、常識は基督を生ぜず、常見は釋迦を成さず、「コンモン、センス」の間には一個の大詩人を着くべきところだにあらざるべしと。
烏有先生はまた逍遙子が沒理想の論を駁していはく。世界はひとり實なるのみならず、また想のみち/\たるあり。逍遙子は沒理性界(意志界)を見て理性界を見ず。意識界を見て無意識界を見ず。意識生じて主觀と客觀と纔に分かるゝ所以をおもはず。老、莊、揚、墨、孔丘、釋迦、其他古今の哲學者が觀得たる世界を小なりとして、自ら片輪なる世界を造らむは果敢なきすさみならまし。後天にのみ注げる眼はダルヰンが論を守りても事足るべけれどそれにて造化は盡されず。棘は誰か磨き成したる。羽は誰か畫き成したる。棘の同じさまなるは姑く置かむ。孔雀の羽のいろ/\はその翰より受くる養おなじきに、色彩の變化は一本ごとに殊なり。その相殊なる色彩の合して渾身の紋理をなすは、先天の理想にはあらざるかと。
烏有先生既に理性界を觀、無意識界を觀て、美の理想ありといひ、又これに適へる極致ありといへり。さればとて先生はいにしへの人の立てし抽象理想論の迂濶なる跡を追はむとにもあらず、またこの世紀の生理、心理の新果實を容れざるにもあらず。その言にいへらく。祇園精舍の鐘の聲、沙羅雙樹の花の色。彼を聞いて寂滅爲樂を感ずるものあれば、また待人こひしとかこつものあり。此を見て諸行無常と觀ずるものあれば、またひたすらに愛でたがるものもあるべし。されど先づ實相々々と追ひ行きたる極端に達して、人間の官能を除き去りておもへ。聲はもと聲ならず、色はもと色ならず。聲も色も分子の動きざまの相殊なるのみ。純粹なる實相には聲もなく、色もなし。さて一歩をゆづりて、人間の官能聲を成すべき分子の波を耳に受けて、是れ聲なりといひ、色を成すべき分子の波を目に受けて、是れ色なりといふ。これすなはち意識界なり。祇園精舍の鐘われがねならば、聞くものこれを厭はしとし、われ鐘ならずば好ましとせむ。沙羅雙樹の花萎ればなならば、見る人これより去り、しほれ花ならずばこれに就かむ。厭はしとして去り、好ましとして就く。これ猶後天より來れる決斷なり。さばれ破がねならぬ祇園精舍の鐘を聞くものは、待人戀ひしともおもひ、寂滅爲樂とも感ずべけれど、其聲の美に感ずるは一なり。沙羅雙樹の花の色を見るものは、諸行無常とも感じ、また只管にめでたしとも眺むめれど、其色の美に感ずるは一つなり。この聲、この色をまことに美なりとは、耳ありて能く聞くために感ずるにあらず、目ありて能く視るために感ずるにあらず。先天の理想はこの時暗中より躍り出でゝ此聲美なり、この色美なりと叫ぶなり。これ感納性の上の理想にあらずや。