われおもふに所謂理想主義を叙情詩の門の專有に歸し、所謂實際主義を叙事詩の門の專有に歸する如きは恐らくは妥ならざる論ならむ。理想主義の類想を宗とする弊、實際主義の個想を宗とする利、いづれも叙情詩、叙事詩、戲曲の三門を通じて見るべきものなり。おもなる事を少し擧げて、詩の映象躍如たる理想主義の利と、瑣事を數ふること多くして聽者を倦ましむる實際主義の弊とも亦然なり。(下卷七一八面)逍遙子がホオマア、シエクスピイヤ、ギヨオテの三家を世相派の實際主義を秉るものに列せしは、ゴツトシヤルがおなじ三家にジヤン・ポオルを加へて實を役する理想主義、即ち眞の實際主義を秉るものとせしと、殆符節を合する如し。(詩學上卷一〇二面)若實際主義にして叙事詩の門の專有に歸すべきものならば、此群に入りたるギヨオテは、ここに洩れたるシルレルなどより立超えたる叙情詩の大家たらむ樣なかるべきをや。(姑くフイツシエルに據る、審美學三の卷一三五二面)
逍遙子は叙情、世相の二派を立てたる標準を以て、我國の節奏文を批評し、上は短歌、長歌より下は連歌、俳諧、謠曲、淨瑠璃に至るまで、(淨瑠璃のある部分を除く外は)おほむね理想詩(叙情派)に屬すといひて、世相派の詩少きを歎きつ。こゝに所謂理想詩をば、類想詩と解しても善かるべく、又(謠曲、淨瑠璃をも除かば)叙情詩と解しても善かるべし。
因に云ふ。逍遙子が梅花道人を樂天詩人なりとせしは面白し。ハルトマンが詩統よりいひても、梅花道人が詩は慥かに樂天詩なるべし。上に詩統の略圖を示せり。
又云ふ。忍月居士はみづからハルトマンを祖述すと稱しながら、小説三派及梅花詞集評を讀みしときは、忽認めて人と事とにおなじおもさをあたふるものとなし、(國會、人物と人事)忽又認めて事を從とし、人を主とするものとなしつるのみ。(同新聞、人物、人事に就きて逍遙先生に寄すと題したる文及此頃の文學界)かくてなほハルトマンを祖述すといはむはいとなん影護かるべき。
逍遙子が前の三派、後の二派に就きては既に論じ畢んぬ。これよりは其批評の標準を措いて、其批評の手段に及ばむ。
逍遙子おもへらく。批評は著作の本旨の所在を發揮することをもて專とすべし。歸納的なるべし。沒理想的なるべし。モオルトンが唱ふる如く、科學的なるべし。標準に拘泥することなかれ。手前勘の理想を荷ぎまはることなかれ。嗜好にあやまたるゝことなかれ。演繹的なることなかれ。芋蟲一疋を解剖するにも、人間を解剖するにおなじく、其間に上下優劣をおかぬ動物學者の心こそ頼もしけれ。批評とはもと褒貶の謂にあらず。
こは實に今の批評家の弊を撓むる論なり。唯夫れ弊を撓むる論なり。かるが故に寖偏なるにはあらずやとおもはるゝふしなきにあらず。凡そ世の中にて、觀察と云ひ、探究と云ふ心のはたらきには、一つとして歸納法の力を藉らざるものなし。人の著作を批評せむとするときも、先づ觀察し、探究せではかなはじ。是れ科學的手段なり。是れ歸納的批評なり。然はあれど觀察し畢り、研究し畢りて判斷を下さんずる曉には、理想なかるべけむや、標準なかるべけんや。理想とは審美的觀念なり。標準とは審美學上に古今の美術品をみて、歸納し得たる經驗則なり。唯哲學者は經驗則を經驗則として應用せず、これをおのが哲學統裡に收めたる上にて活かし使はむとするのみ。審美的觀念は拉甸人が爭ふべからぬものと定めし一人々々の嗜好にあらず。學問上にあきらめ得たる趣味なり、「エステジス」なり。拘泥すればこそ標準を憎め。手前勘なればこそ、杓子定規なればこそ理想を厭へ。蠋を昆蟲なりといひ、拙き小説家を固有派なりといふときは、其際におのづから褒貶存ず。是れ演繹的批評ならざらむやは。
逍遙子又いへらく。批評家は猶植物家の植物を評する如く。動物家の動物を評する如く、理想を離れて其物を評すべしといふのみなり。それの某は世に益あり、又は益なしといふは、當世又は未來世に對しての評判なり。これは科學的批評にあらずして、實地應用批評などゝいふべし。純粹評判と應用評判とは殊なり。
これも亦今の批評家の弊を撓むる論なり。その偏なるが如き迹あることは、上の歸納、演繹の辨におなじ。われおもふにおほよそ世の中に、用と無用との別ほどむづかしきものはあらじ。物物而責之用、用亦窮矣と東坡外傳の首に題せし西疇子が言もおもはるゝは、二三の新聞の文學を視るこゝろの狹さなり。文學國を滅ぼすといふものあり。(讀賣)文士は樂隊の如し、事あるときは何の用をもなさずと罵るものあり。(中新聞)美を度外に視ること能はざる人性を知らず、趣味の高卑より國民の文野分るゝことを知らぬ人々なればこそ、かゝる決斷をなすならめ。如法これ等の輩に向ひては、應用評判を斥けて、純粹評判を勸むる逍遙子が言、大に開發の功を秦するなるべし。然はあれど必ず用を問はじといふも科學的手段を講ずるものゝ迷ならまし。動植をきはむる學者の心は、世の常の用をばげに問はざるべけれど、進化説を唱ふる人は、微蟲を解剖するときも、おのれが懷ける説の旨に愜はむことを願はざるにあらず。唯科學の公心あるをもて、預期せしところに反せし事實をも、言はで止むごときことなからむのみ。生物の最微なるを細菌とす。世界第一の細菌學者コツホはつねに其徒に誨へていはく。利害なき細菌を取りて、一々種を定め名を命ぜむはいともおろかなるべしと。されば膠中に栽ゑたるとき、紫色を見する水中の細菌、立派なる拉甸名を得たるは、利害なき中にても、その紫の色に出にければなりかし。今の小説界に入りと入りぬる人の作を取りて、一々蠋を解く勞を取らむこと、さりとては難義ならむか。われは逍遙子が縱令その量をせばめずとも、少しく用の有無を顧み、利害なき「バクテリヤ」を措いて、蝶になるべき蠋を取り、再びは世の無頼子に牛刀鷄を割く(文苑)といはれざらむを望む。
逍遙子はまた世の批評家が二千餘年前に死せし人の肋骨を息杖にして、アリストテレエスなどが言を引用ゐるを笑ひき。こは眞の卓見なり。然はあれど審美學の道理には、アリストテレエスが詩學にて早くも充分に發揮せられたるものなきにあらず。レツシングがハムブルクにありて、二千零八十九年前に死せしアリストテレエスを引きけむも、吾人が今年の文界に立ちて、二千二百十三年前に死せしアリストテレエスを引かむも、おそらくは大なるけぢめなかるべし。支那學者が道徳を説きて、いつも先王の道といふを笑ふものはさはなり。されど獨逸の民がいまもユスチニヤンの法典を參考律にするを笑ふを聞かず。是れ識者のつら/\慮るべきところなり。モオルトンはげに新なるべし。セント・ブウウはげに近かるべし。されどアリストテレエスも廢つべからず。
自ら註す。梓神子の取次の翁が言を、直に逍遙子が言とせしを疑ふ人もあるべし。されど作家が言と作家が其作中の人にいはしむる言とは、時ありて大差なきをば、フイツシエルも斷言せしことあり。(流俗及褻語一四七面)況や逍遙子はさゝのやみどりに對して、わが批評に關しての意見は、近頃の讀賣新聞に、戲文もてほゞいひ顯しおきぬといひしをや。(文苑、明治二十四年九月)
(明治二十四年九月)