逍遙子は類想派は常識の如く、個想派は理學の如く、小天地想派は哲學の如くなりといへど、若譬を進めて、哲學は科學の親なるゆゑに、小天地想派は常に個想派に優れり、常識は科學の材たるに過ぎねば、類想派は最下なりといはゞ、大なる僻事ならむといへり。われおもふに恐らくは然らず。哲學は科學の親なる如く、個想に小天地の義あり。ダルヰン、ハツクスレエが説、謬妄哲理に優りたるはダルヰン、ハツクスレエが説の中に世界の眞理あればなり。謬妄哲理の彼等が歸納説に及ばざるは、その謬妄なるためにて、苟くも近世の哲學統といはれむ程のものは、ダルヰン、ハツクスレエが説をも容れざるべからず。(ハルトマンが「ダルヰニスムス」の論を見よ)類想の卑きは模型に盡くる期ありといひしハルトマンが言を見ても知るべからむ。逍遙子は想に縁りて派を立て、これを梅櫻の色殊なるに比べ、類想派の作家に向ひて、個想派の作を求めむは、ふりたる梅園に向ひて其花の櫻ならざるを笑ふ如しといひ、今の批評家を烏許の風流雄なりといへり。夫れ逍遙子が一味の雨は、もろ/\の草木を沾すに足りなむ。然れども類想と個想との別はおそらくは梅と櫻との別に殊なるべし。花に譬へていはゞ、類想家の作も個想家の作も、おなじ櫻なるべけれど、かなたは日蔭に咲きて、色香少く、こなたは「インスピラチオン」の朝日をうけて、匂ひ常ならぬ花の如しとやいふべからむ。日蔭に生ふる櫻に向ひて、色香深き花を求めむは無理ならむ。その花の色香少きを評せむは、必ずしも無理ならじ。逍遙子は嵐に似たる批評家の花に慈ならざるを怪めども、われは逍遙子が花に慈なるに過ぎて、風を憎むことの太甚きを怪めり。若批評の上に絶て褒貶なかりせば、我文界はいとゞ荒野とやなりなむ。
逍遙子は我文界に小天地想の人間派なきを認めき。(我國はいまだギヨオテ、シエクスピイヤを出さず)逍遙子は我舊作家を以て類想の固有派に屬せりとなし、我新作家を以て未だ至らざる個想の折衷派となしつ。われは此評の殼を噛碎きて、其肉の甘さと其核の苦さとを味ふ。人間派なきは大詩人なきなり、妙手なきなり。舊作家の固有派に屬するは、其凡手なるためなり。新作家の折衷派に屬するは、其小家數たることを免れざるためなり。かの不知庵のあるじが如く、今の我國の小説家には、等級ありといへばえに、言はずして流派を立てつるは逍遙子なり。具眼の人誰かこの肉中の核を認めざらむ。
或ひとのいはく。逍遙子はげに今の我文界に人間派なきを認めき。されど其言にいはずや。嘗て「ミツドル、マアチ」を見しに、ジヨルジ・エリオツト女史が作に人間派の旨に愜へるところあり。其外にもおなじ派を汲む人ありや知らねど、英國にての人間派詩人はこれのみならむも計り難かり。夫の近世の魯獨にこそ人間派の小説家も多しとは聞きつれ。そもいと近きほどの事なり。又佛蘭西なる諸作家バルザツク、ユウゴオ、ゾラ、ドオデエの徒は、或は人情派の界を超えて、人間派に入れりともいふべからむが、これとてもまた近世の作家なり。詮ずるところ人間主義の小説界に入りしは、十九世紀に於ける特相といふも誣言にあらじ。尚いと穉きほどの顯象なり云々。是れ人間派は新きものにて、漢學者若くは御國まなびせし人の小説家になりたるに向ひて、人間派に入れといはむことの理なきを明にしたるにあらずや。こはまことに其故ある事なり。然れども逍遙子は別に世相派といふものを立てゝ、これにホオマアを算したるなり。彼の漢學者若くは國學者たる小説家に對して求むべきは、此種叙事詩の大作なるべし。これその推理上能くすべきものなればなり。又東洋に個物主義なしといはむか、これは屡聞えし説なり。ヨハンネス・シエルいはく。東洋戲曲の最偉なるは印度詞曲なれど、印度詞曲の雄は、遂に此詩體の質を知らざりき。蓋戲曲の質は、個人がみづから自在にものを定むる性より生ず。惜むらくは東洋の靈魂は、かゝる個物主義を得るに至りしこと、絶てなかりき。(世界文學史一の卷一七面)是れ東洋に個想なかりきといふ説の一例なり。吾邦の詩人には果して眞に個想なかりしか。ギヨオテ、シエクスピイヤが詩に見えたる如き個想なかりしか。若無くば、小天地想を美の極意とする立脚點より見て、吾邦古來大詩人なしといはむのみ。世の批評家に大和魂ありて、古來なかりし大詩人を今の文界に求めむとせば、われ唯これを壯なりといはむ。
小説三派の外、逍遙子は別に詩の二派を立てたり。其一を叙情派又理想派といひ、其二を世相派又造化派といふ。
叙情派は理想を宗とす。理想とは心の世界なり、虚の世界なり。此派の詩人は我を尺度として世間を度る。彼は理想の高大圓滿ならむことを望み、自家の極致の其作の中に飛動せむことを期す。其小なるや、一身の哀歡を歌ふに過ぎざれども、其大なるや、作者乾坤を呑みて、能く天命を釋し、一世の豫言者たることを得べし。其さま猶雲に冲る高嶽のごとく、彌高うして彌著し。其さまは又猶萬里の長堤のごとし。遠うして更に遠しといふとも、詮ずるに踏破しがたきにあらず。ダンテ、マアロオ、ミルトン、カアライル、バイロン、ヲオヅヲオス、ブラウニング等は家數に大小ありといへども皆叙情詩人なり。
世相派は自然を宗とす。自然とは物の世界なり、實の世界なり。此派の詩人は我を解脱して、世間相を寫す。その望むところは、作者の影空くして、ひとへに世態の著からむことなり。其小なるや、管見の小世態を寫すに止まれど、其大なるや、能く造化を壺中に縮めて、鎭に不言の救世主たらむ。其状猶邊なき蒼海のごとく、彌大にして彌茫々たり。又猶底知らぬ湖のごとし。深うして更に深く、遂に其底を究むべからず。ホオマア、シエクスピイヤ、ギヨオテ、スコツト、エリオツト等は、家數の大小こそ相殊なれ、此派の詩人なり。
逍遙子が叙情、世相の二派は、ハルトマンが審美學上、叙情詩、叙事詩の二派に當れり。
ハルトマンのいはく。叙情詩は客觀の相に勝ちたる主觀の情を以てその質とす。その客觀の相を捕來るは、感情の主觀を高うもし、深うもせむとてのみ。(下卷七四五面)是れ豈逍遙子が所謂、我を尺度として世間を度るところにあらずや。
又いはく。叙事詩は客觀相を以て、その偏勝の質とす。その主觀の情は、唯半掩はれてかすかに響きいづるのみ。(同所)是れ豈逍遙子が所謂、我を解脱して世間相を寫すものにあらずや。
ハルトマンは此二門の外に、戲曲門 Dramatik を立てゝいはく。叙情詩にては、主觀の情、客觀の相に勝ち、叙事詩にては、客觀の相、主觀の情に勝ちたれども、戲曲に至りては、情と相との平均を取戻さむとす。さればヘエゲルが審美學にて、戲曲は叙情、叙事の二門にて偏勝したる兩義を合併したりといへる、固より善し。唯キルヒマンが戲曲の叙情、叙事の二詩門に殊なるは、場に上せて興行すべきところにありといひしも、亦未だ嘗て善からずばあらず、(同所)逍遙子が「ドラマ」はこれに殊なり。固有、折衷、人間の三派を分つときは、人間派を以て、最狹き意義にていふ「ドラマ」の結構とす。これに對する叙事詩は固有派に屬し、折衷派は「ドラマ」と叙事詩との界に立てり。その叙事詩となるは、事を先にすること甚きときにして、その「ドラマ」となるは人を主とすること重きときなり。又叙情、世相の二派を立つるときは、世相詩人を以て「ドラマチスト」とし、以て叙情詩人の「リリカル、ポエト」に對したり。人間派の旨、若小天地想に在らば、是れ叙情詩、叙事詩、戲曲の三門を通じて求めらるべきものなれば、われこれに配するに「ドラマ」を以てせむことを欲せず。彼客觀相をして偏勝せしむる世相詩人の作、即沒主觀情詩(梓神子にいはゆる沒理想詩)は、もとより相と感と並び至らむことを望める戲曲にあらざれば、これを「ドラマ」といはむも亦願はしき事にあらじ。
因にいふ。國會文苑に出でし戲曲論中、戲曲の標準の條にて、忍月居士は逍遙子の所謂「ドラマ」をさながらに戲曲のことゝ看做して反駁を試みつ。こは逍遙子が言に、今の批評家狂言作者に向ひて「ドラマ」を求むるは底事ぞとありしに据りたるなるべし。されど逍遙子が所謂「ドラマ」には、單に戲曲といはむよりは廣き義あり。忍月居士はそを認めざりしにや。
逍遙子が叙情、世相の二派、ハルトマンが叙情詩、叙事詩の二門に當れることは既にいひき。然れども更に其區別の立てかたをとみかうみるに、いまだ其義を悉さゞるところあらむを恐る。われ思ふに所謂叙情と世相との目には、別に普通の意義にて理想、實際の兩語に當れるところあるべし。
ゴツトシヤルのいはく。造化を模傚し、實を寫すことより出づるを實際主義といひ、理想の世界、精神の領地より出づるを理想主義といふ。(詩學上卷九九面)是れ逍遙子が所謂自然を宗とする世相派と理想を宗とする叙情派とに通へり。又いはく。實際主義に偏したるものは、心なき造化を宗としたる美術品を得べく、理想主義に偏したるものは、造化なき心を宗としたる美術品を得べし。(同所)是れ逍遙子が所謂管見の小世態を描くものと、一身の哀歡を歌ふものとに近し。
ハルトマンは理想派、實際派の別を認めず。彼は抽象を棄てゝ結象を取り、類想を卑みて個想を尊めり。嘗て美術の革命を説いていはく。革命者實際主義といひ、自然主義といふものを奉ずるは、其假面のみ。自然には個物ありて類なし。この故に美術を以て模傚となすは、固より謬見なれど、其謬見中にては自然を模傚せむとするこそ抽象したる類型を模傚せむとするに優りたれ。類には實なくして個物には實あり。この故に極致をみだりなりとして、實を美術の材にせむとするものは、おのづから類想を遠離りて個想に近寄らむとす。革命者の勢力は其源、小天地想に在り。その妄なりとして棄てし極致は類の極致のみ。革命者は類の極致の外、別に個物の極致あることを知らざるなり。美は實を離れたる映象なれば、美術に實を取らむやうなし。想の相をなすとき、實に似たることあるは、偶然のみ。個物の美、類の美より美なるは、實に近きためにあらず。實の美なること類美の作より甚しきは、實の結象したる個物に適へること作に勝りたればなり。(審美學下卷一八八及一八九面)