一、父の幼名は詳ならず。法名は禮嚴。雅号を尚絅、又は尚歌堂といへり。人となり、内に豪気を負ひ、志操堅実にして清廉、外は温厚優雅の風姿あり。平生読書を好み、小閑あれば即ち巻を放たず。学は仏、儒、老、荘、国典等に渉りしが、就中、唯識、六国史、万葉集、古今集、韻鏡等に精通せり。説教を善くし、又特に遊説の弁に長ず。その人を説くや、徐ろに種種旁系の問題を出して対者をして先づ所感を言はしめ、討究数次の間、おのづからわが言はんとする主要の意見を却て対者をして言はしむるに及び、徹頭徹尾我は之を賛ずるの位地に立つが故に、毫も他を不快ならしむることなく、よく悦服随喜せしむるを得たりと言ふ。父が維新前後の事功は、私欲に澹泊にして公事に熱烈なる稟性と、この温顔善弁の徳とに由るならんか。さはれ、軽薄なる世情に対しては、時に痛憤の抑へ難きものやありけん、みづからの嗔恚を戒めらるる歌の此集に多きを見れば、父はまた克己の心を修めて内に善く忍ぶの人なりけらし。また、さばかり他人に対して善く忍び給ひし父の、折にふれて、子等に向ひ激怒を発せられしは、我等の放逸なる性精を矯めんとの御心しらひなりけんと思ふに、かへすがへすもかたじけなし。
一、父は若狭国高浜の専能寺に養子となられし頃、一男あり、響天と云ひ、大都城氏を襲げり。京に来り、山崎氏を娶りて大圓、照幢、巖、寛、修の五男、靜子の一女を挙げられたり。大圓は和田氏を冒し、照幢は赤松氏を冒し、寛は家を襲げり。
一、此集に父の写真を載すると共に、記念として母の写真をも載せたり。母、名は初枝、天保十年二月二十一日京都の商家山崎氏に生れ、明治二十九年九月二日五十八歳を以て身まかり給ひき。人となり、都雅快濶にして細憂に拘拘たらず、貧寒の間に居りて絃を弾じ、大津絵を歌ひ、奇謔常に人の頤を解けり。
一、また、此集に挿みたる父の筆蹟の初なるは壮年の頃の詠草、次なるは晩年の詠草及び短冊なり。
明治四十三年七月十五日、
東京駿河台に於て、
與謝野 寛しるす。
禮嚴法師歌集
わが嗔恚のこころを戒めて。
かりそめに土水火風もて造る身ぞと思へば何か嗔らん
毒を持ついかり心に世の中の人を害ふ毒虫ぞわれ
風に散る花も木葉も嗔らずとながめ悟ればわが法ぞかし
正眼にて観れば月日も雨風も世に嗔りなき友にはありけり
雲は行く水は流れつ腹黒きおのが嗔りにかかはりもせで
春の花秋の紅葉の色も香も身をなぐさめつ嗔り無ければ
嗔らずば我を守らぬものもなし海山かけて天の下には
過ぎし世に向ひて怒り試みよ空しく消えて跡形もなし
獣にも角生ひ蹄牙歯あるはむかし嗔りしなごりとぞ聞く
あとの波は前の波とも知らねどもえにしよりこそ又起りけれ
なにごとも嗔れば破れ睦魂のあへる中にぞ道は成るとふ
諍はで何れの道もむつまじくつとむれば世の為とこそなれ
折にふれて、老を歎きつつ詠める。
いなと言へど攫みかかりて皺よりてすべなきものは老の奴ぞ
松生ふる荒磯ならねどしくしくに寄りくるものは老の年波
かりそめと思ひ結びし草の庵いつか頭の霜枯れにけん
人かずによみ洩されて老いぬれば浮世の外に生き残るかな
前つ世の如何なる罪のむくいきて拙かるらん老が身のすゑ
老いて世にすてられんとは思ひきやあはれ六十路もたはぶれの夢
われこそは浦洲の鳥のうらさびて世にもまじらず身は老いにけれ
たのみなき老のあはれを敷栲の枕ぬらして泣く寝覚かな
いたづらに人かずならず老いにけり我やうき世の飯袋なる
年老いて物忘るるは住の江に貝を拾ひしむくいなるらん
草も木も花こそうつれ常磐樹のかはらぬ世こそあらまほしけれ
老いぬれば痩せさらぼへる身を愧ぢて人住む世には出でじとぞ思ふ
六十ぢあまり過ぎしは夢のうき世にて覚めし現は今日ひと日のみ
老いぬれば傾く月を見るにさへ末長からぬわが身さびしも
大椋の池にうかるる鴛鴦のをしき月日をいたづらに経ぬ
あぢきなき我や潮干のみをつくし何のしるしか世に残るらん
我ばかりからき世嘗めし身のはては路の蓼生に骨曝さん
身の老いし歎きにまさる憂きもがなそよ其事とまぎれもぞする
かぞふれば七十ぢ三とせ老い暮れぬさりとて世にはわざも残らず
言問はぬ木すら花咲きみのれるを人に生れて木に如かずけり
いつまでの老が命ぞ世の憂きもこの身を土になすまでぞかし
人並に生くる甲斐なし若狭路の後瀬の山の後の世ぞ待つ
愚かなる心に身をば守られきて怨言ばかりに世を終るかな
花の歌の中に。
春くれば花こそ先づはしたはるれ思ひ捨てても世の中ぞかし
うちはらふ莚の塵もかをるかな咲き埋みたる花の下庵
人の世に心とどめて花見ればさかりの間こそすくなかりけれ
明治二十九年の冬、洛東歌の中山清閑寺に移り住みて、次の年の春に詠める。
天地はものこそ言はね鶯を啼かせて山に春ぞ告げける
鶯は稀に来啼けど竹ばしらかたぶく庵に雪はふりつつ
山寺の茅葺ごしに雪折の梅も咲きけり春や来ぬらん
山深み月日も知らず雪ふかみ春と知らねど鶯啼くも
わが老と積りし山の雪のみは年は立てども消えずもあるかな
花を待つ下ごころには春雨のそそぐしもこそうれしかりけれ
わが山の谷間の花の薄明り雨夜の月にむささびの啼く
春雨に花のとぼその霧曇り都のかたも見えぬ窓かな
こころよき春のうたたね降る雨を夢とうつつの中空に聴く
春日かげ長閑に霞む山寺に苔路きよめて花を見るかな
老の身は後たのまれず花のみは春は往ぬともとはに咲かぬか
花の枝の下なる窓を朝目よく開くれば月に鶯の啼く
うち見れば世を終るまで惜まれつ花はわがため絆とぞ思ふ
七十ぢにあまる春までながめても花は老せず若やかに咲く
霞みつつ日は落ちにけり山かげの花のみ白き春の夕ぐれ
年を経て世にすてられし身の幸は人なき山の花を見るかな
ものいはぬ仏と住めばものいはぬ花もたふとし歌の中山
身につもる思を何になぐさめん常磐ににほふ花も咲けかし
うつせみの世に捨てられて山に入れば我より前に花ぞかをれる
花の色よ老だに隠せ若からば陰には千世の春も経ぬべし
そよ吹けば香こそはまされあだながら花にも待ちぬ松の下風
かなしくも濡れつつ散りぬさくら花この春雨に濡れつつ散りぬ
山風のはらへば積り積りして簀子に花の絶えぬ庵かな
風ならで訪ふ人もなき山の戸は掃はぬ花の塵もかぐはし
花はみな昨夜の小雨にちりはてて朝晴しろし宇多の中山
ほろほろと霞ごもりに山鳥の啼く音のどけき花の昼かな
山ふかき埴生の花をたまたまも訪ひし貴人内へと申せ
かなしさも忘るるばかり山寺の庭をきよめてちる桜かな
家ざくら散り過ぎぬれば鶯も臥処荒れぬと思ふらんかも
西に入る春の日かげはわが住める庵より低し宇多の中山
子をあまた持てれど、皆遠き国にあれば、老の心細さに、折にふれて恨みかこつことも多かり。
暑き日はわが子を思ひ老いはてて身の寒ければましてしのばゆ
子にまよふ親の耳には山にてもおなじ心の鳥の音ぞする
誰をかは頼まんうからやからにも疎まるるまで老いにけるかな
親と子のともに住めるも多き世に生きて別れて遠く隔つる
久方の天のはらからむつびあひて親を守るこそうらやましけれ
遠く住む子等にも告げよほととぎす身のさびしさにその父は泣く
子と云へば老いては名だに恋しきを国へだつこそ恨なりけれ
子を持てば子の為にさへ後かけてわれ悪しき名は立てじとぞ思ふ
子にこころ暗む折こそわれ故にまどひし親の闇も知らるれ
足撫槌手撫槌神も名にし負へば子は古も愛くやありけん
風に散る花を見てすら惜む世に子等にはなれて住める我かな
子はあれど住む国遠し常はあれ病みてくるしむ折には恋し
子と言へばせめて命の際ばかり膝をも枕きて死なんとぞ思ふ
過ぎし世の如何なる咎か報いきて我には疎き子を持たるらん
世を去りてなからん後に思ひいでよひとりわびつつ親は死にきと
親と子の世にはえにしの薄けれどなき後にこそ思ひ知るらめ
折ふしは親の上をも語るやと子を思ふごとに泣き咽びつつ
子を思ふ心はさこそ闇ならめ道の隈囘も見えぬ親かな
山かげの雪間にあさる山がらす汝が声ならで音づれもなし
菜花三首。
都より西を霞に見わたせば野は黄なるまで菜の花の咲く
家にのみあるもいぶせし春の野に菜の花さけば心ゆるぎぬ
世の中に知られぬ宿も菜の花の香を覓めてこそ蝶の飛ぶらめ
人人と加茂の御社に詣でて。
露ながら葵かざせばほととぎす折なつかしく神山に啼く
蝉二首。
晴れんとて本間明れる夕立に降りつぐ蝉のむら時雨かな
寝おびれて啼く声すずし宿る木のしづくや蝉の夢冷しけん
菖蒲五首。
三島江や雨のなごりの露の香を袖にうつして引くあやめかな
秣草には刈りは刈るとも隠れ沼のあやめは残せ枕結ふべく
引く袖ににほふ菖蒲の露のかぜ沢の入日にかわかずもがな
あやめ葺く萱が檐端の夕風にちりこそにほへむら雨の露
屋に葺かん折し来ぬればあやめ草にほふ風さへなつかしきかな
歌の中山に住みける夏。
夕日かげかがやく色にまばゆくもわが山躑躅花さきにけり
橘のかをれる庭は風ながらはた雨ながら塵ながら見ん
夢さめて清きみ山の蝉きけばかはりたる世のここちこそすれ
夕立は麓すぐれど高嶺よりあらしの払ふ宇多の中山
折にふれて、み仏のめぐみのかたじけなさに詠める、かずかずの歌。
ひと枝の花を手向けん香る木を焚きてむくいんみ仏の前に
前の世に如何なるちぎり結ばれて斯かる光明に遇ふ身なるらん
み仏のめぐみに漏れて生れなば牛ならましを馬ならましを
わくらはに遇ひし御法の花の香は聴きしめてこそ身ににほひけれ
知らでこそ仏をよそに思ひしか我も光明の中に住む身を
犬猫の身にも生れず人の世に御法きけとて出しましけん
忘れても仏はわれを放たじと聞く身しもこそ涙こぼるれ
昔出でしわがふるさとの都路に急がんためか年の老いゆく
罪おほき身もよき人と一つらに住ます蓮のその誓はも
数ならぬ身もみめぐみを念ふとき心すなはち仏とぞ聞く
水にすむ影は手にだにとられねど月のやどりは疑もなし
樹にふるる風の音さへ御法なるたのしき国に今ぞ到らん
心だに僻まずもがなみほとけの子と説く数に洩れぬ身なれば