昔趙人藺相如が手に鶏を縛るの力なくして、秦廷に強勢の昭王をやりこめ天下に二つとない和氏連城の玉を全うして還ったは、大枚の国費で若い女や料理人まで伴れ行き猫の欠ほどの発言も為し得なんだ人物と霄壌だが、このギリシア婦人が揚威せる敵軍に直入して二つしかないその夫の大事の玉を助命して帰ったは、勇気貞操兼ね備わり、真に見揚げたとまで言い掛けたが、女を見揚ぐるはどこぞに野心あるからと仏が戒めたから中止として、谷本博士が言われた通り、婦女に喉を切る嗜みなどを仕込むよりは、睾丸の命乞いは別として、勇胆弁才能く敵将を説伏するほどの心掛けを持たせたい事である。
俗に陰嚢の垂れたるは落ち着いた徴で、昔武士が戦場で自分の剛臆を試むるに陰嚢を探って垂れ居るか縮み上ったかを検したというが、パッチ股引ジャあるまいし甲冑を著て容易く探り得ただろうか。したがって陰嚢の垂れた人は気が長いという。これは本当で、かく申す熊楠のは何時も糸瓜のごとし。それ故か何事をも糸瓜とも思わず、ブラブラと日を送るから昨年の「猴に関する民俗と伝説」も麁稿は完成しながら容易に清書せず忘れてしまい、歳迫ってようやく気が付き清書に掛かったが間に合わず、ついに民俗までで打ち切って伝説の部は出し得なんだに由って今この篇は先例を逆さまに伝説から書き始めた。こんな気の長い人が西洋にもあったものか、チャムバースの『ブック・オヴ・デイス』に珍譚あり。昔話に物言わずに生まれ付いた人が騎馬して橋を過ぐる内、顧みてその家来に汝は鶏卵を好くかと問うとハイ好きますと答えた。何事もなしに一年経って一日同じ橋を騎馬で過ぐる内、同じ家来に去年の問いを続けるつもりでどんなのをと問うと、家来も抜からず焼いたのであります。これよりも豪いのはグラスゴウ附近カムプシーちゅう所の牧師アーチブルド・デンニストンで、一六五五年その職を免ぜられ、王政恢復(一六六〇年)の後復職した。免職前に講演第一条を終った続きの第二条を復職後述ぶる発端に、時節は変ったが聖教はいつも変らぬと口を切ったそうだ。ところがこの牧師も瞠若と尻餅を搗かにゃならぬ珍報が一八六二年の諸新聞紙に出た。紀元七十九年ヴェスヴィウス山大噴火のみぎり、ポンペイ市全滅に際しその大戯場で演劇を催しいた実跡あるに乗じ、今度ランギニてふ山師がポンペイの廃趾に戯場を建て、初演の広告に当戯場は千八百年目にいよいよまた「行儀の娘」の外題で開演するに付き、前の座主マルクス・キンツス・マルチウスの経営中に劣らず出精致しますれば、貴顕紳士は相替らず御贔屓御入来を願うと張り出した。熊楠いう、東洋にはずっと豪いのがあって、玄奘三蔵の『大唐西域記』巻十二烏鎩国の条に、その都の西二百余里の大山頂に卒都婆あり、土俗曰く、数百年前この山の崖崩れた中に比丘瞑目して坐し、躯量偉大、形容枯槁し、鬚髪下垂して肩に被り面に蒙る。王も都人も見物に出懸け香花を供う、この巨人は誰だろうと王が言うと、一僧これは袈裟を掛け居るから滅心定に入った阿羅漢だろう、この定に入るに期限あり、犍稚(わが邦の寺で敲き鳴らす雲板、チョウハンの類)の音を聞けば起るとも、日光に触れば起るともいう、さもない間は動かず、定の力で身体壊れず、かく久しく断食した人が定を出たら酥油を注いで全身を潤し、さて犍稚を鳴らして寤ますがよいと答えた。その通りして音を立てる事わずかにして羅漢眼を開き、久しく見廻して汝ら何人で形容卑劣なくせに尊い袈裟を被るぞと問うた。かの僧我は比丘だと答うると、しからば我師迦葉波如来は今何処にありやと問う。かの如来は大涅槃に入りて既に久しと聞いて目を閉じ残念な顔付しまた釈迦如来は世に出たかと問うから、昔生まれて世を導きすでに寂滅されたと答う。久しく頭を俯した後虚空に昇り、自分で火を出し身を焚いて遺骸地に堕ちたのを、王が収めてこの塔を立てたと見ゆ。
誰も知る通り婆羅門教に今の時代を悪劫とするに反し、仏教には賢劫と称す。この賢劫に四仏既に出た。人寿五万歳の時拘留孫仏、人寿四万歳の時倶那含牟尼仏、人寿二万歳の時迦葉波仏、人寿百歳の時釈迦牟尼仏が出て今の仏法を説いた。それより段々減じて人寿十歳、身の長一尺、女人生まれて五月にして嫁す。人気至って悪く悪行する者は人に敬せられ、草木瓦石を執るも皆刀剣とあり、横死無数なり。その時山に蔵るる者ただ一万人残る。他の人種相殺し尽した後出で来り相見て慈心を起し共に善法を行う。その功徳で百年ごとに一年ずつ命が増す、人寿八万四千歳に上りそれより八万歳を減ずる時賢劫の第五仏弥勒仏が出る。減じたというものの、人の命が八万年でそれより一年も若くて死ぬ者なく、女人は五百歳で方に嫁す。日に妙楽を受け、禅定に遊ぶ事三禅の天人のごとく常に慈心ありて恭敬和順し一切殺生せず。ただ飲食便利衰老の煩を免るる能わず。香美の稲ありて一度種うれば七度収穫され、百味具足し口に入ればたちまち消化す。大小便の時地裂け赤蓮花を生じて穢気を蔽うとあるから、そんな結構な時代の人もやはり臭い糞は垂れるのだ。人民老ゆれば自然に樹下に往き、念仏して静かに往生し、大梵天や諸仏の前に生まる。その時の聖王に子千人と四大宝蔵あって中に珍宝満つ。衆人これを見て貪著せず、釈迦仏の時昔の衆生この宝のために相偸劫して罪を造ったと各呆れる。その時弥勒仏生まれて成道し、件の聖王その悴九百九十九人と弟子となって出家し一子のみ出家せずに王位を嗣ぐ。弥勒世尊、翅頭末城外の金剛荘厳道場竜華菩提樹下で成道する。この樹は枝が宝竜のごとく百の宝華を吐く故この名あり。初めに金剛座上で説法し九十六億人阿羅漢を得、二会と三会に城外の華林園で説法し、九十四億と九十二億の人が阿羅漢となる。これを竜華の三会といって馬琴の『八犬伝』の文句にも出れば、弥陀の念仏流行して西方浄土往きの切符大投げ売りとなるまでは、キリスト教の多くの聖人大士が極楽へ直通りせず最終裁判の日を待ち合すごとく、弘法大師その他の名僧信徒、殊に畏れ多いが至尊で落飾された方々もこの弥勒の出世をあるいは入定したり、あるいは天上霊域で待ち合され居るはずとさる高僧から承った。とにかく昔の仏徒が弥勒の出世を竢つ事、古いキリスト教徒がミルレニウムを竢ったごとく、したがって、中国や朝鮮で弥勒と僭号して乱を作した者もありと記憶し、本邦でも弥勒十年辰の年など万歳が唱え祝い、余幼時「大和国がら女の呼いおとこ弥勒の世じゃわいな」てふ俚謡を聞いた。およそ仏教の諸経に、弥勒の世界と鬱単越洲を記せる、その人間全く無差別で平等で、これが西洋で説かれていたら遠くの昔に弥勒社会主義とかようのものが大いに起ったはずだが、東洋には上述の僅々小人がこれを冒して、小暴動を起したくらいに止まり、わが邦では古く帝皇以下ことごとくその経文を篤信して静かにその出世を竢たれたので、どんな結構な文も読む者の心得一つで危険思想も生ずれば、どんな異常な考えを述べた者も穏やかにこれを味わえば人心を和らげ文化を進めるに大益ありと判る。ただし『仏説観弥勒菩薩下生経』に、この閻浮提洲、弥勒の世となって、危険な物や穢い物ことごとく消え失せ、人心均平、言辞一類となり、地は自然に香米を生じ、衣食一切の患苦なしとあるに、無数の宝を蔵めた四大倉庫自然に現出すると、守蔵人、王に白す。ただ願わくば大王この宝蔵の物を以てことごとく貧窮に施せと、爾時大王この宝を得已ってまた省録せず、ついに財物の想なしと言えるは辻褄が合わず、どんな暮しやすい世になっても、否暮しやすければやすいほど貧乏人は絶えぬ物と見える。さて、弥勒世尊無量の人と耆闍崛山頂に登り、手ずから山峯を擘く。その時梵王天の香油を以て大迦葉尊者の身に灌ぎ、大犍稚を鳴らし大法螺を吹く音を聞いて、大迦葉すなわち滅尽定より覚め、衣服を斉整して長跪合掌し、釈迦如来涅槃に臨んで大迦葉に付嘱した法衣を持って弥勒仏に授け奉る。釈迦の身長は一丈八尺とか、その法衣が弥勒仏の両指をわずかに掩うはずと土宜法竜僧正から承った。さればこの時諸大衆今日この山頂に人頭の小虫醜陋なるが僧服を著て世尊を礼拝するは珍なものだと嘲ると、弥勒世尊一同に向い、孔雀好色あれど鷹、鶻鷂に食われ、白象無量の力あるを、獅子獣小さしといえども撮り食らう事塵土のごとし、大竜身無量にして金翅鳥に搏たる、人身長大にして、肥白端正に好しといえども、七宝の瓶に糞を盛り、汚穢堪うべからず、この人短小といえども、智慧錬金のごとく、煩悩の習久しく尽き、生死苦余すなし、護法の故にここに住み、常に頭陀事を行う。天人中最も勝れ、苦行与等なし、牟尼両足尊、遣わし来って我所に至る。汝らまさに一心に、合掌して恭しく敬礼すべしと偈を説き、釈迦牟尼世尊五濁の悪世に衆生を教化した時、千二百五十弟子の中で頭陀第一、身体金色で、金色の美婦を捨て、出家学道昼夜精進して貧苦下賤の衆生を慈愍し、恒にこれを福度し、法のために世に住する摩訶迦葉とはこの人これなりと呵するので一同睾丸縮み上って恐れ入る。一丈八尺の法衣が二指を掩い兼ねるほどの巨人の睾丸だから、一個の直径一間は確かにある。そこで大迦葉尊者前述烏鎩国の出定阿羅漢同様の芸当を演じ、自ら火化する骨を弥勒が拾うて塔婆を立つるという未来記だが、五十六億七千万年後のこと故信ずるにも足らねば疑うも気が利かぬ。ただ熊楠がここに一言するは、壮歳諸国を歴遊した頃は、逢う南中米のスペイン人ごとに余を軽視する事甚だしく、チノ・エス・エル・シウダッド・デル・ハボン(支那は日本の都)といって、日本とは支那の領地の片田舎と心得た者のみだった。かく肩身の狭い日本に生まれながら、その頃の若者はそれぞれ一癖も二癖もあり、吾輩自身も自分がかつてこれほどの事がよく出来たと驚くほどの働きをした。しかるに日本の肩味が広くなればなるほど、これが何で五大国の一かと重ね重ね怪しまるるほど日本人の実価が下ったように思う。孔雀好色あれど鷹に食われ、獅子小といえども大象を撮り食う事塵土のごとしという。弥勒、如来の詞は分り切った事ながら各の身に当て省みるべきじゃ。『西域記』九には大迦葉が釈迦の法衣を守って入定し居る地を鶏足山とす。三つの峯聳えて鶏の足に似たから名づけたらしい(ビール英訳、二巻一四二頁註)、これは耆闍崛山と別だ。「迦葉尊者は鶏足に袈裟を守って閉じ籠る」という和讃あれば、本邦では普通鶏足山に入定すとしたのだ。支那にも『史記』六に〈始皇隴西北地を巡り、鶏頭山に出で、回中を過ぐ〉とある。鶏頭の形した山と見える。