(一)
貢さんは門徒寺の四男だ。
門徒寺と云つても檀家が一軒あるで無い、西本願寺派の別院並で、京都の岡崎にあるから普通には岡崎御坊で通つて居る。格式は一等本座と云ふので法類仲間で幅の利く方だが、交際や何かに入費の掛る割に寺の収入と云ふのは錏一文無かつた。本堂も庫裡も何時の建築だか、随分古く成つて、長押が歪んだり壁が落ちたり為て居る。其れを取囲んだ一町四方もある広い敷地は、桑畑や大根畑に成つて居て、出入の百姓が折々植附や草取に来るが、寺の入口の、昔は大門があつたと云ふ、礎の残つて居る辺から、真直に本堂へ向ふ半町ばかりの路は、草だらけで誰も掃除の仕手が無い。
檀家の一軒も無い此寺の貧乏は当前だ。併し代々学者で法談の上手な和上が来て住職に成り、年に何度か諸国を巡回して、法談で蓄めた布施を持帰つては、其れで生活を立て、御堂や庫裡の普請をも為る。其れから御坊は昔願泉寺と云ふ真言宗の御寺の廃地であつたのを、此の岡崎は祖師親鸞上人が越後へ流罪と定つた時、少時此地に草庵を構へ、此の岡崎から発足せられた旧蹟だと云ふ縁故から、西本願寺が買取つて一宇を建立したのだ。其時在所の者が真言の道場であつた旧地へ肉食妻帯の門徒坊さんを入れるのは面白く無い、御寺の建つ事は結構だが何うか妻帯を為さらぬ清僧を住持にして戴きたいと掛合つた。本願寺も在所の者の望み通に承諾した。で代々清僧が住職に成つて、丁度禅寺か何かの様に瀟洒した大寺で、加之に檀家の無いのが諷経や葬式の煩ひが無くて気楽であつた。
所が先住の道珍和上は能登国の人とやらで、二十三で住職に成つたが学問よりも法談が太層巧く、此の和上の説教の日には聴衆が群集して六条の総会所の縁が落ちるやら怪我人が出来るやら、其れ程に評判であつた。又太層美僧であつた所から、後家や若い娘で迷ひ込んだ者も大分にあつた。在所の年寄仲間は、御坊さんの裏の竹林の中にある沼の主、なんでも昔願泉寺の開基が真言の力で封じて置かれたと云ふ大蛇が祟らねば善いが。あヽ云ふ若い美くしい和上さんの来られたのは危いもんだ。斯う噂をして居たが、和上に帰依して居る信者の中に、京の室町錦小路の老舗の呉服屋夫婦が大した法義者で、十七に成る容色の好い姉娘を是非道珍和上の奥方に差上げ度いと言出した。物堅い和上も若いので未だ法力の薄かつた故か、入寺の時の覚悟を忘れて其の娘を貰ふ事に定めた。
其頃御坊さんの竹薮へ筍を取りに入つた在所の者が白い蛇を見附けた。其処へ和上の縁談が伝はつたので年寄仲間は皆眉を顰めたが、何う云ふ運命であつたか、愈呉服屋の娘の輿入があると云ふ三日前、京から呉服屋の出入の表具師や畳屋の職人が大勢来て居る中で頓死した。
御坊さんは少時無住であつたが、翌年の八月道珍和上の一週忌の法事が呉服屋の施主で催された後で新しい住職が出来た。是が貢さんの父である。此の住持は丹波の郷士で大庄屋をつとめた家の二男だが、京に上つて学問が為たい計りに両親を散々泣かせた上で十三の時に出家し、六条の本山の学林を卒業してから江戸へ出て国書を学び、又諸国の志士に交つて勤王論を鼓吹した。其頃岡崎から程近い黒谷の寺中の一室を借りて自炊し、此処から六条の本山に通つて役僧の首席を勤めて居たが、亡くなつた道珍和上とも知合であつたし、然う云ふ碩学で本山でも幅の利いた和上を、岡崎御坊へ招ずる事が出来たら結構だと云ふので、呉服屋夫婦が熱心に懇望した所から、朗然と云ふ貢さんの阿父さんが、入寺して来る様に成つた。
其丈なら申分は無かつたのだが、呉服屋夫婦は道珍和上に娶はせようと為た娘を、今度の朗然和上に差上げて是非岡崎御坊に住ませたい、最愛の娘を高僧に捧げると云ふ事が、何より如来様の御恩報謝に成るし、又亡く成つた道珍和上への手向であると信じて居た。娘に此事を語り聞かせた時、娘は、わたしは道珍様が御亡く成りに成つた日から、もう尼の心に成つて居ますと云つて泣き伏したが、もう朗然和上と夫婦との間に縁談が決つて居つた後だから、親の心に従つて終に其年の十一月、娘は十五荷の荷で岡崎御坊へ嫁入つて来た。娘の齢は十八、朗然和上は三十四歳、十六も違つて居た。
此の婚礼に就いて在所の者が、先住の例を引いて不吉な噂を立てるので、豪気な新住は境内の暗い竹籔を切払つて桑畑に為て了つた。
其れから十年許り経つて、奥方の一枝さんが三番目の男の児を生んだ。従来に無い難産で、産の気が附いてから三日目の正午、陰暦六月の暑い日盛りに甚い逆児で生れたのが晃と云ふ怖しい重瞳の児であつた。ぎやつと初声を揚げた時に、玄関の式台へ戸板に載せて舁ぎ込まれたのは、薩州の陣所へ入浸つて半年も帰つて来ぬ朗然和上が、法衣を着た儘三条の大橋で会津方の浪士に一刀眉間を遣られた負傷の姿であつた。
傷は薩州邸の口入で近衛家の御殿医が来て縫つた。在所の者は朗然和上の災難を小気味よい事に言つて、奥方の難産と併せて沼の主や先住やの祟りだと噂した。もともと天下を我家と心得て居る和上は岡崎の土地などを眼中に置いて居ない所から、在所の者に対して横柄な態度も有つたに違ひ無い。其上近年は世の中の物騒なのに伴れて和上の事を色々に言ふ者がある。最も在所の人の心を寒からしめた馬鹿々しい噂は、和上は勤王々々と云つて諸国の浪士に交際つて居る。今に御寺の本堂を浪士の陣屋に貸して、此の岡崎を徳川と浪士との戦場にする積りだらう、と云ふ事である。で何かに附けて在所の者は和上を憎んだが。檀那寺の和尚では無いから、岡崎から遂ひ出す訳にも行か無かつた。
和上と奥方との仲は婚礼の当時から何うもしつくり行つて居無かつた。第一に年齢の違ふ故もあつたが、和上は学者で貧乏を苦にせぬ豪邁な性質、奥方は町家の秘蔵娘で暇が有つたら三味線を出して快活に大津絵でも弾かう、小児を着飾らせて一人々々乳母を附けて芝居を見せようと云ふ豪奢な性質、和上が何かに附けて奥方の町人気質を賎むのを親思ひの奥方は、じつと辛抱して実家へ帰らうともせず、気作な心から軽口などを云つて紛らして居る内に、三人目の男の児を生んだ。
此度の難産の後、奥方は身体がげつそり弱つて、耳も少し遠く成り、気性までが一変して陰気に成つた。和上の傷は二月で癒えたが、其の傷痕を一目見て鎌首を上げた蛇の様だと身を慄はせたのは、青褪めた顔色の奥方ばかりでは無かつた。其頃在所の子守唄に斯う云ふのが流行つた。
『坊主の額に蛇が居る。
蛇から飛び出た赤児の眼。』
『赤児の眼』は重瞳の三男を指したのである。奥方は何と云ふ罪障の深い自分だらうと考へ出した。本堂の阿弥陀様計りでは此の不思議な怖ろしい宿業が除かれぬやうな気がするので、門徒宗でやかましい雑行雑修の禁制を破つて、暇があれば洛中洛外の神社仏寺へ三男を抱いて参詣した。以前は気質の相違であつたが、今は信仰までが斯う違つたので、和上は益々奥方が面白く無い。伏見の戦争が初まる三月程前から再び薩州邸に行つた切り明治五年まで足掛六年の間一度も帰つて来なかつた。伏見戦争の後で直ぐ、朝命を蒙つて征討将軍の宮に随従し北陸道の鎮撫に出掛けたと云ふ手紙や、一時還俗して岩手県の参事を拝命したと云ふ報知は、其の時々に来たが、少しの仕送りも無いので、奥方は嫁入の時に持つて来た衣服や髪飾りを売食して日を送つた。実家の方は其頃両親は亡くなり、番頭を妹に娶はせた養子が、浄瑠璃に凝つた揚句店を売払つて大坂へ遂転したので、断絶同様に成つて居る。在所の者は誰も相手にせぬし、便る方も無いので、少しでも口を減す為に然る尼の勧めに従つて、長男と二男を大原の真言寺へ小僧に遣つた。奥方の心では二人の子を持戒堅固の清僧に仕上げたならば、大昔の願泉寺時代の祟りが除かれやう、沼の主も鎮まるであらうと思つたので、開基と同じ宗旨の真言寺と聞いて、可愛い二人の子を犠牲にする気で泣き乍ら手放した。
明治五年の夏、和上は官界を辞してぶらりと帰つて来た。フロツクコオトを着て山高帽を被つた姿は固陋な在所の人を驚かした。再び法衣を着たことは着たが、永の留守中荒れ放題に荒れた我寺の状は気にも掛けず格別修繕しようともせぬ。毎日洋服を着て書類を入れた風呂敷包を小脇に挾んで、洋杖を突いて、京都府下の富豪や寺院をてくてくと歴訪する。其れは隣村の鹿ヶ谷に盲唖院と云ふものを建てる趣意書を配つて応分の寄附金を勧誘する為であつた。
其の翌年に貢さんが生れた。