(二)
今日は日曜なので阿母さんが貢さんを起さずに静と寝かして置いた。で、貢さんの目覚めたのは朝の九時頃であつた。十歳に成る貢さんは独で衣服を着替へて台所へ出て来た。
『阿母さんお早う。』
阿母さんはもう座敷の拭掃除も台所の整理事も済ませて、三歳になる娘の子を脊に負ひ乍ら、広い土間へ盥を入れて洗濯物をして居る。
『お早うでも無いぢや無いか。よく寝られて。昨夜は。』
『ふん、寝坊をしちやつた。阿父さんは。』
『涼しい間にと云つてお出掛に成つたの。』
『阿母さん、昨日校長さんが君ん家の阿父さんは京の街で西洋の薬や酒を売る店を出すんだつて、本当かて聞きましたよ。本当に其様店を出すの。』
『阿父さんの事だから何を為さるか知れ無い。昔から二言目には人民の為だもの。』
『今日は何処へ入らしたの。』
『神戸の夷人さん処。委しい事は阿母さんなんかに被仰らないけれど、日本で初めて博覧会と云ふものを為さるんだつて。』
『ふうん。』
『お前御飯は何うする。』
『お昼と一処でいゝ。』
『ぢや然うお為。其から阿母さんは今一枚洗つて、今日は大原まで兄さん達の白衣を届けて来るからね、よく留守番を為てお呉れ。御飯には鮭が戸棚にあるから火をおこして焼いてお食べ。お土産には山鼻のお饅を買つて来ませう。』
『お日様の暮れぬ内に帰つて頂戴よ。』
貢さんは井戸端へ下りて自分で水を汲んで顔を洗つた。其れから畳の破れを新聞で張つた、柱の歪んだ居間を二つ通つて、横手の光琳の梅を書いた古ぼけた大きい襖子を開けると十畳敷許の内陣の、年頃拭込んだ板敷が向側の窓の明障子の光線で水を流した様に光る。幾十年と無く毎朝焚き籠めた五種香の匂がむつと顔を撲つ。阿母さんが折々一時間も此処に閉ぢ籠つて出て来ぬ事がある丈に、家中で此内陣計りは温かい様ななつかしい様な処だ。貢さんは黒塗の経机の前の円座の上に坐つて三度程額づいた。
『南無、南無、南無阿弥陀仏。』
本尊の阿弥陀様の御顔は暗くて拝め無い、唯招喚の形を為給ふ右の御手のみが金色の薄い光を示し給うて居る。貢さんは内陣を出て四畳半の自分の部屋に入つた。机の上に昨日持つて帰つた学校の包が黒い布呂敷の儘で解きもせずに載つて居る。其れを見ると、力石様のお濱さん処へ遊びに行く約束だつた事を思出した。
『遅く成つた、遅く成つた。行かう。』
独言を言つて吃驚した様に立上ると、書院の方の庭にある柿の樹で大きな油蝉が暑苦しく啼き出した。捕まへてお濱さんへの土産にする気で、縁側づたひに書院へ足音を忍ばせて行つたが、戸袋に手を掛けて柿の樹を見上げた途端に蝉は逃げた。
『阿房蝉。』
斯う大きな声で云つて振返ると、書院の十畳の方の室の障子が五寸程明いて居る。兄の晃の居間だ。其の間から長押に掛けた晃の舶来の夏帽が目に附く。覗いて見たが、晃兄さんは居無い。台所の方へ走つて来た貢さんは、其処に阿母さんが見えないので、草履を穿いて裏口から納屋の後へ廻つた。阿母さんは物干竿に洗濯物を通して居る。
『阿母さん、晃兄さんが帰つたの。』
阿母さんは一寸振返つて貢さんを見たが、黙つて上を向いて襁褓の濡れたのを伸して居る。
『晃兄さんの帽が掛かつてましたよ。』
と鄭寧に云つて再び答を促した。阿母さんは未だ黙つて居る。見ると、晃兄さんの白地の薩摩絣の単衣の裾を両手で握んだ儘阿母さんは泣いて居る。貢さんは、阿母さんの機嫌を損じたなと思つたので、徐と背を向けて四五歩引返した。
『貢さん。』と阿母さんの声は湿んで居る。
『はい。』
『お前はね、よく阿母さんの言ふ事をお聞き。なんぼ貧乏な生活をしても心は正直に持つんですよ。』
『はい。』
『晃兄さんの様に成つては仕様が無いわね、阿母さんの衣服や頭の物を何遍も持出して売飛ばしては、唯もう立派な身装をする。こんな阿父さんも御着に成らん様な衣類や、靴や時計を買つてさ。学問でもする事か、フルベツキさんに英吉利西の語を習つても三月足らずで止めて了ふし、何かなし若い娘さん達の中で野呂々々と遊んで居たい、肩上を取つたばかしの十八の子の所作ぢや無い。祟つてる御方があつて為さるのかも知らんけれど、あれでは今に他人様の物に手を掛けて牢屋へ行く様な、よい親の耻晒しに成るかも知れん。今度は阿父さんの財嚢から沢山なお金、盲唖院の先生方の月給に差上げるお銭を持出して二月も帰つて来ないんだもの。阿父さんは見附次第警察へ出すと被仰るけれど、其れでは明るみの耻に成る。阿母さんは大原の律師様にお頼みして兄さん達と同じ様に何処かの御寺へ遣つて、頭を剃らせて結構な御経を習はせ度いと思ふの。ね、貢さん、阿母さんや此の脊中の桃枝が頼りにするのはお前一人だよ。阿父さんはあんな方だから家の事なんか構つて下さら無い。此の下間の家を興すも潰すもお前の量見一つに在る。其れに阿母さんも此の身体の具合では長く生きられ相にも無いからね、しつかり為て頂戴よ、貢さん。』
『はい、解つて居ます。阿母さん。』
貢さんの頬にははらはらと熱い涙が流れた。阿母さんは萌黄の前掛で涙を拭き乍ら庫裡の中へ入つた。貢さんは何時も聞く阿母さんの話だけれど、今日は冷たい沼の水の底の底で聞かされた様な気がして、小供心に頼り無い沈んだ悲哀が充満に成つた。で、蚯蚓が土を出て炎天の砂の上をのさばる様に、かんかんと日の照る中を歩いてづぶ濡れに冷え切つた身体なり心なりを燬け附かせ度く成つたので、書院の庭の、此頃の旱に亀甲形に亀裂の入つた焼土を踏んで、空池の、日が目を潰す計りに反射する、白い大きな白河石の橋の上に腰を下した。
『阿母さんが死になさるのぢや無いか知ら。』
ふつと斯な事が胸に浮んだ。今日に限つて特別に阿母さんの身体が鉄色の銚子縮の単衣の下に、ほつそりと、白い骨計りに見えた様な気がする。『なあに。』と直ぐに打消したが、ぞつと寒く成つて身体が慄へた。次いで色々の感想が湧いて来る。
『家では阿母さんが一番気の毒だ。………併し阿父さんも、あんな羊羹色のフロツクしか無いんだもの、知事さんの前なんかで体裁が悪るからう。…………阿父さんは、晃兄さんには仕方が無いけれど、阿母さんに何故あゝ慳貪に物を被仰るんだらう。…………晃兄さんも習字があの様に善く出来て、漠文の御本も善く読める癖に、何故真面目に成つて夷人さんの語が習へないのかなあ。…………家の物を泥坊するのは良く無いが、阿父さんが吝々してお銭をお遣りなさらんから、兄さんも意地に成るんだ。…………兄さんも阿母さんから、初中内密で小遣を戴き乍ら…………阿母さんが被仰る通り女の様に衣服なんか買ふのは馬鹿々々しい。』
果しなく斯んな事を思ひ続けて居ると、何処かで自分を喚ぶ声がした。庫裡の方へ向いて、
『阿母さんなの。』
と大きな声で尋ねたが、返事が無い。立上らうとすると汗をびつしより掻いて居た。裏口へ行かうとする時、又何か声が聞えた。桑畑の中からだ。途端にお濱さんを思ひ出した。約束の時間に自分が行か無いので、待ち兼ねてお濱さんが迎へに来たのだと考へた。
貢さんは兎の跳ぶ様に駆け出して桑畑に入つて行つた。畑の中にお濱さんは居ない。沼の畔に出た。旱の為に水の減つた摺鉢形の四方の崖の土は石灰色をして、静かに湛へた水の色はどんよりと重く緑青の様に毒々しい。お濱さんは居なかつたがおなじ様に鼠色の無地の単衣を着た盲唖院の唖者の男の子が二人、沼の岸の熊笹が茂つた中に蹲がんで、手真似で何か話し乍ら頷き合つて居た。其れが貢さんには、蛇の穴を発見けたので掘らうぢや無いかと相談して居る様に思はれた。
『悪るい事なんか為ては行かんよ。』
と、五六間手前から叱り付けた。唖者の子等は人の気勢に駭いて、手に手に紅い死人花を持つた儘畑を横切つて、半町も無い鹿ヶ谷の盲唖院へ駆けて帰つた
貢さんは見送つて厭な気がした。