一
昔はお武家が大小を帯してお歩きなすったものですが、廃刀以来幾星霜を経たる今日に至って、お虫干の時か何かに、刀箪笥から長い刀を取出して、これを兵児帯へ帯して見るが、何うも腰の骨が痛くッて堪らぬ、昔は能くこれを帯して歩けたものだと、御自分で駭くと仰しゃった方がありましたが、成程是は左様でござりましょう。なれども昔のお武家は御気象が至って堅い、孔子や孟子の口真似をいたして、頻に理窟を並べて居るという、斯ういう堅人が妹に見込まれて、大事な一人娘を預かった。お宅は下根岸もズッと末の方で極く閑静な処、屋敷の周囲は矮い生垣になって居まして、其の外は田甫、其の向に道灌山が見える。折しも弥生の桜時、庭前の桜花は一円に咲揃い、そよ/\春風の吹く毎に、一二輪ずつチラリ/\と散て居る処は得も云われざる風情。一ト間の裡には預けられたお嬢さん、心に想う人があって旦暮忘れる暇はないけれど、堅い気象の伯父様が頑張って居るから、思うように逢う事も出来ず、唯くよ/\と案じ煩い、……今で言えば肺病でござりますが、其の頃は癆症と申しました、寝衣姿で、扱帯を乳の辺まで固く締めて、縁先まで立出ました途端、プーッと吹込む一陣の風に誘われて、花弁が一輪ヒラ/\/\と舞込みましたのをお嬢さんが、斯う持った……圓朝が此様な手附をすると、宿無が虱でも取るようで可笑いが、お嬢さんは吻と溜息をつき、
娘「アヽ……、何うして伊之さんは音信をしてくれぬことか、それにつけてお母様もあんまりな、お雛様を送って下すったのは嬉しいが、私を斯ういう窮屈な家へ預け、もう生涯彼の人に逢えぬことか、あゝ情ない、何うかして今一度逢いたいもの……」
と恨めしげに涙ぐんで、斯う庭の面を見詰ますと、生垣の外に頬被をした男が佇んで居る様子、能々透かして見ますると、飽かぬ別れをいたしたる恋人、伊之助さんではないかと思ったから、高褄をとって庭下駄を履き、飛石伝いに段々来って見ると、擬うかたなき伊之助でござりますから、
娘「おゝ伊之さん能くまア……」
と無理に手を把って、庭内へ引込んだ。余り慌てたものだから少し膝頭を摺毀した。
娘「まア/\此方へ」
手を把っておのれの居間へ引入れましたが、余り嬉しいので何も言うことが出来ませぬ。伊之助の膝へ手を突いてホロリと泣いたのは真の涙で、去年別れ今年逢う身の嬉しさに先立つものはなみだなりけり。是よりいたして雨の降る夜も風の夜も、首尾を合図にお若の計らい、通える数も積りつゝ、今は互に棄てかねて、其の情漆膠の如くなり。良しや清水に居るとても、離れまじとの誓いごとは、反故にはせまじと現を抜かして通わせました。伊勢の海阿漕ヶ浦に引く網もたび重なればあらわれにけりで、何時しか伯父様が気附いた。
伯父「ハテナ、何うしたのだろう、若は脹満か知ら」
世間を知らぬ老人は是だからいけませぬ。もうお胤が留っては隠すことは出来ない。彼は内から膨れて漸々前の方へ糶出して来るから仕様がない。何うも変だ、様子が訝しいと注意をいたして居ました。すると其の夜八ツの鐘が鳴るを合図に、トン/\トンと雨戸を叩くものがある。お若は嬉しそうに起上って、そっと音せぬように戸を開けて引入れた。男はずっと被りし手拭を脱り、小火鉢の向うへ坐した様子を見ると、何うも見覚のある菅野伊之助らしい。伯父さんは堅い方だから、直に大刀を揮って躍込み、打斬ろうかとは思いましたが、もう六十の坂を越した御老体、前後の御分別がありますから、じっと忍耐をして夜明を待ちました。夜が明けると直に塾の書生さんを走らせて鳶頭を呼びにやる。何事ならんと勝五郎は駭いて飛んで来ました。
勝「ヘイ、誠に御無沙汰を…」
主人「サ、此方へお這入り、久しく逢わなかったが、何時も貴公は壮健で宜いノ」
勝「ヘイ、先生もお達者で何より結構でがす、何うも存じながら大御無沙汰をいたしやした」
主人「まア此方へお出、何うも忙しい処を妨げて済まぬナ」
勝「何ういたしまして、能々の御用だろうと思って飛んで来やしたが、お嬢様がお加減でもお悪いのでがすか」
主人「ヤ、其の事だテ、去年お前が若を駕籠に乗せて連れて来た時、先方から取った書付、彼は今だに取ってあるだろうノ、妹の縁家堺屋と云う薬店へ出入の菅野伊之助と云う一中節の師匠と姪の若が不義をいたし、斯様なことが世間へ聞えてはならぬと云うので、大金を出して手を切った、尤も其の時お前が仲へ這入ったのだから、何も間違はあるまいけれど、どうか当分若を預かってくれと云う手紙を持って、若同道でお前が来たから、その時私が妹の処へ返詞を書いてやったのだ、手前方へ預れば石の唐櫃へ入れたも同然と御安心下さるべく候と書いてやった」
勝「ヘイ/\成程」
主人「何でも伊之助と手を切る時、お前の扱いで二百両とか三百両とか先方へやったそうだナ」
勝「エ、左様で、三百両確かにやりました」
主人「其の伊之助がもしも若の許へ来て逢引でもする様な事があったら貴様済むまいナ」
勝「そりゃア何うも先生の前でげすが、アヽやってお嬢さんもぶらぶら塩梅が悪くッてお在なさるし、何うかお気の紛れるようにと思って、私ア身許から知ってる堅え芸人でげすから、私が勧めて堺屋のお店へ出入をするようになると、あんな優しい男だもんだから、皆さんにも可愛がられ、お内儀さんも飛んだ良い人間だと誉めて居らしったから、お世話効があったと思って居ました、処がアヽ云う訳になったもんですから、お内儀さんが、此金で堺屋の閾を跨がせない様にして呉れと仰しゃって、金子をお出しなすったから、ナニ金子なんざア要りませぬ、私が行くなと云えば上る気遣いはごぜえませんと云うのに、何でもと仰しゃるから、金子を請取って伊之助に渡し、因果を含めて証文を取り、お嬢さんのお供をしてお宅へ出ましたッ切で、何うも大きに御無沙汰になってますので」
主人「ナニ無沙汰の事は何うでも宜い、が、其の大金を取って横山町の横と云う字にも足は踏掛けまいと誓った伊之助が、若の許へ来て逢引をしては済むまいナ」
勝「ヘエー、だッて来る訳がねえので」
主人「処が昨夜己が確に認めた、余り憎い奴だから、一思いに打斬ろうかと思ったけれど、イヤ/\仲に勝五郎が這入って居るのに、貴様に無断で伊之助を、無暗に己が打つも縛るも出来ぬから、そこで貴様を呼びにやったんだ、だから其処で立派に申開をしろ」
勝「ヘエー、それは何うも済まねえ訳で、本当に何うも見損った奴で」
主人「まア己の方で見ると、貴様は金子を伊之助にやりはすまい、好い加減な事を云って金子を取って使っちまったろうと疑られても仕様がないじゃアないか、店の主人は女の事だから」
勝「エ、御尤もで、じゃア私は是から直に行って参ります、申訳がありませぬから、あの野郎、本当に何うも戯けやアがって、引張って来て横ずっ頬を撲飛ばして、屹度申訳をいたします」
其の儘戸外へ飛出して直に腕車に乗り、ガラ/\ガラ/\と両国元柳橋へ来まして、
勝「師匠、在宅か」
伊「おや、さお這入んなさい」
勝「冗談じゃアねえぜ、生空ア使って、悠々とお前此処に坐って居られる義理か」
伊「え、何で」
勝「何もねえ、え、おい、本当に己はお前のために、何様にか面皮を欠いたか知れやアしねえ、折角己が親切に世話アしてやった結構なお店を、お嬢さんゆえにしくじって仕まい、其の時お内儀さんが此金をと云って下すったから、ソックリお前の許へ持て来てやったら、お前が気の毒がって、以来はモウ横山町の横と云う字にも足は踏かけめえと云って、書付まで出して置きながら、何で根岸くんだりまで出かけて行くんだよ」
伊「え、誰がお嬢さんに逢ったんです」
勝「とぼけるなイ、お前が行ったんじゃアねえか」
伊「まアあなた、そう腹立紛れに、人の言う事ばかり聴いてお出なすっちゃア困りますナ、まア行ったなら行ったになりましょうが……」
勝「昨夜お前は、既に捕捉って、ポカリとやられちまう処だッたんだ、以前はお武家で、剣術の先生だから、処がモウ年を取ってお在なさるから、忍耐をして今朝己を呼びによこしたんだが、何うしたッて己が何とも言訳がねえじゃアねえか」
伊「マヽ行ったと仰しゃるなら行ったにもなりましょうが、昨夜は何うしても行けませぬ、其の証人は貴方です」
勝「己が……何ういう」
伊「何うだッて、日暮方から来て、川長へでも行ってお飯を喰いに一緒に行けと仰しゃるから、お供をしてお飯を戴き、あれから腕車を雇ってガラ/\/\と仲へ行って、山口巴のお鹽の許へ上って、大層お浮れなすって、伊之や/\と仰しゃって少しもお前さんの側を離れず夜通し居た私が、何うして根岸まで行ける訳がないじゃアありませぬか」
勝「ウム、違えねえ、側に居たなア、何を云やアがるんで、耄碌ウしてえるんだ、あん畜生、ま師匠腹を立ちゃア往けねえヨ、己は遂い慌てるもんだから凹まされたんだ、己がお前に渡す金を取って使ったろうと吐しやアがった、ヘン、憚りながら己だッて五百両や六百両、他人の金子を預かることもあるが、三文だッて手を着けたことはありゃアしねえ、其様な事は大嫌えな人間なんだ、ちょいと行って来らア、少し待って居ねえ」
また腕車を急がせて根岸のはずれまで引返して来た。
勝「ヘイ唯今」
主人「イヤ、大きに御苦労、何うだ伊之助は居たか」
勝「エヽ先生は昨夜伊之が此方へ来たと仰しゃいますが、昨夜じゃアありますめえ」
主人「ナニ、昨夜確に見たから、今朝貴様の許へ人をやったんだ」
勝「ヘエー、昨夜なら何うしても来る訳がねえので」
主人「何故」
勝「何故ったッて、何うも誠に先生の前では、些ときまりの悪い話でげすが、実は彼奴を連れて吉原へ遊びに行ったんでげすから、何うしても此方へ来る筈がごぜえませんので」