一の一
時は九月の初め、紅塵飜へる街頭には尚ほ赫燿と暑気の残りて見ゆれど、芝山内の森の下道行く袖には、早くも秋風の涼しげにぞひらめくなる、
「ムヽ、是れが例の山木剛造の家なんか」と、石造の門に白き標札打ち見上げて、一人のツブやくを、伴なる書生のしたり顔「左様サ、陸海軍御用商人、九州炭山株式会社の取締、俄大尽、出来星紳商山木剛造殿の御宅は此方で御座いサ」
「何だ失敬な、社会の富を盗んで一人の腹を肥やすのだ、彼の煉瓦の壁の色は、貧民の血を以て塗つたのだ」
「ハヽヽヽ、君の様に悲観ばかりするものぢや無いサ、天下の富を集めて剛造輩の腹を肥すと思へばこそ癪に障るが、之を梅子と云ふ女神の御前に献げると思もや、何も怒るに足らんぢや無いか」
「貴様は直ぐ其様卑猥なことを言ふから不可んよ」
「是れは恐れ入つた、が、現に君の如き石部党の旗頭さへ、彼の女神の為めには随喜の涙を垂れたぢや無いか」
「嘘言ふな」
「嘘ぢや無いよ、僕は之を実見したのだから弁解は無用だよ」
「嘘言へ」
「剛情な男だナ、ソレ、此の春上野の慈善音楽会でピアノを弾いた佳人が有つたらう、左様サ、質素な風をして、眼鏡を掛けて、雪の如き面に、花の如を唇に、星の如き眸の、――彼女が即ち山木梅子嬢サ」
「貴様、真実か」
と彼の書生は、木立の間なる新築の屋根を顧みつゝ「何うも不思議だナ、僕は殆ど信ずることが出来んよ」
「懐疑は悲観の児なりサ、彼女芳紀既に二十二―三、未だ出頭の天無しなのだ、御所望とあらば、僕聊か君の為めに月下氷人たらんか、ハヽヽヽヽヽ」
「然かし、貴様、剛造の様な食慾無情の悪党に、彼いふ令嬢の生まれると云ふのは、理解すべからざることだよ」
「が、剛造などでも、面会して見れば、案外の君子人かも知れないサ」
「そんなことがあるものか」
丸山の塔下を語りつゝ、飯倉の方へと二人は消えぬ、
客去りて車轍の迹のみ幾条となく砂上に鮮かなる山木の玄関前、庭下駄のまゝ枝折戸開けて、二人の嬢の手を携へて現はれぬ、姉なるは白きフラネルの単衣に、漆の如き黒髪グル/\と無雑作に束ね、眼鏡越しに空行く雲静かに仰ぎて、独りホヽ笑みぬ、
今しも書生の門前を噂して過ぎしは、此の女の上にやあらん、紫の単衣に赤味帯びたる髪房々と垂らしたる十五六とも見ゆるは、妹ならん、去れど何処ともなく品格いたく下りて、同胞とは殆ど疑はるゝばかり、
「ぢや、姉さんは何方が好だと仰しやるの」と、妹は姉の手を引ツ張りながら、面顰めて促がすを、姉は空の彼方此方眺めやりつゝ、
「あら、芳ちやん、私は好も嫌も無いと言つてるぢやありませんか」
「けれど姉さん、何方かへ嫁くとお定めなさらねばならんでせう、両方へ嫁くわけにはならないんだもん」
「左様ねエ、ぢや私、両方へ嫁きませうか」と、姉は振り返つて嫣然と笑ふ、
「酷いワ、姉さん、からかつて」と、妹は白い眼して姉を睨みつ、じつと身を寄せて又た取り縋がり「ね、姉さん、松島様の方にお定めなさいよ、私、松島さん大好きだわ、海軍大佐ですつてネ、今度露西亜と戦争すれば、直ぐ少将におなりなさるんですと――ほんたうに軍人は好いわ、活溌で、其れに陸軍よりも海軍の方が好くてよ、第一奇麗ですものネ、其れでネ、姉さん、昨夜も阿父と阿母と話して在しつたんですよ、早く其様決めて松島様の方へ挨拶しなければ、此方も困まるし、大洞の伯父さんも仲に立つて困まるからつて」
「芳ちやんは軍人がお好きねエ」
「ぢや、姉さんは、あの吉野とか云ふ法学士の方が好いのですか、驚いたこと、彼様ニヤけた、頭ばかり下げて、意気地の無い」
「左様ぢや無いの、芳ちやん」と、姉は静に妹を制しつ「私はネ、誰の御嫁にもならないの」
妹は眼を円くして打ち仰ぎぬ「――ほんたう」