一の二
折柄門の方に響く足音に、姉の梅子は振り返へりつ、
「長谷川牧師が光来しつてよ」
色こそ褪せたれ黒のフロックコート端然と着なしたる、四十恰好の浅黒き紳士は莞爾として此方に近き来る、是れ交際家として牧師社会に其名を知られたる、永阪教会の長谷川某なり、
妹の芳子は頬膨らし、
「厭な奴ツ」とツブやくを、梅子は「あら」と小声に制しつ、
牧師は額の汗拭ひも敢へず、
「これは/\、御揃ひで御散歩で在らつしやいまするか、オヽ、『黒』さんも御一緒ですか」と、芝生に横臥せる黒犬にまで丁重に敬礼す、是れなん其仁、獣類にまで及べるもの乎、
「エヽ、本日罷り出でまする様と、御父上から態々のお使に預りまして」と、牧師は梅子の前に腰打ち屈めつ「甚だ遅刻致しまして御座りまするが、御在宅で在らせられまするか」
妹嬢は黙つて何処へか去つて仕舞ひぬ、
「御光来を願ひましたさうで御座いまして、誠に恐れ入りました」と、梅子の言ふを、
「イエ、なに、態々と申すでは御座りませぬ、外に此の方面へ参る所用も御座りまする、其れに久しく御父上には拝顔を得ませんで御座りまするから」
牧師は身を反らしてニヤ/\と笑ひぬ、
梅子に導かれて牧師は壮麗なる洋風の応接室に入りぬ、
待つ間稍々久しくして主人は扉を排して出で来りぬ、でつぷり肥りたる五十前後の頑丈造り、牧師が椅子を離れての慇懃なる挨拶を、軽くも顋に受け流しつ、正面の大椅子にドツかとばかり身を投げたり、
「御来宅を願つて甚だ勝手過ぎたが、少こし御注意せねばならぬことがあるので」と、葉巻莨の烟多く棚引かせて「他でも無い、例の篠田長二のことであるが、近頃何か頻りに非戦論など書き立てて居るさうだ、勿論彼奴等の『同胞新聞』など言ふものは、我輩などの目には新聞とは思へないので、何せ狂気染みた壮士の空論、元より歯牙に掛ける必要もないのだが、然かし此頃娘共の話して居た所を聞くと、近来教会に於ても、耶蘇教徒は戦争に反対せにやならぬなど、無法なことを演説すると云ふことだが、」
牧師は恐る/\口を開き「さ、其件に就きましては私も一方ならず、心痛致し居りまするので」と弁せんとするを、剛造は莨の灰もろ共に払ひ落としつ「其に梅子などは何やら其の僻論に感染して居るらしいので、大に其の不心得を叱つたことだ、特に近頃彼女の結婚に就て相談最中のであるから、万一にも社会党等の妄論などに誤られる様なことがあらば、其れこそ彼女ばかりでは無い、山木一家に取つて由々しき大事なのである、で、今日君を御呼び立て致したのは、社会党を矢張り教会に入れて置かるゝ御心得か如何を承つて、其上で子女等を教会へお預けして置くか如何を決定したいと思ふのである」
牧師は俯して沈黙す、
剛造はジロリ其を見やりつ「苟も山木の家族が名を出して居る教会に、社会党だの、無政府党だのと云ふバチルスを入れて置かれては、第一我輩の名誉に関することで、又た彼の様な其筋で筆頭の注意人物を容れ置くと云ふのは、教会の為めにも不得策だらう、彼様乱暴な人物も耶蘇教信者だと云ふので、無智漢の信用を繋いで居るのだから」