二
明帝は班超の成功を嘉納せられ、改めて彼に西域經營を命ぜられた。班超は依然三十六人の小勢にて、鄯善の西なる于闐(今の和闐)王を屈服せしめ、その翌年(西暦七四)には、謀を設けて、頑強な疏勒(今の喀什噶爾)王を擒にして居る。かくて班超は僅々二年の間に、西域の半ばを平定したが、永平十八年(西暦七五)に明帝崩じて、その子の章帝が位に即かれた。この機會に乘じて、西域諸國は連合して、漢の勢力を摧破することを企てたから、章帝も一時西域經營を中止して、班超を召還した。折角の功業を一旦に廢棄せなければならぬ、班超の遺憾は想像に餘りある。幸に彼の威徳に懷ける疏勒于闐の人々は、その馬を控へ、その行を遮る有樣に、班超は獨斷にて、西域經營を繼續する決心をした。
爾後五年の間、彼は全く本國から絶縁されて、僅々三十餘人の部下と共に、疏勒に留まつた。この間彼は尤も完全に尤も有效に、いはゆる以夷制夷政策を實行した。以夷制夷といふことは、已に西漢時代から、支那外交の最高政策と認められ、今日まで慣用されて居るが、班超ほど有效に、この政策を實行した人はあるまいと思ふ。建初五年(西暦八〇)に、始めて本國より千餘人の援兵を送られて以來、彼は一層目覺しい成功を遂げた。即ち章帝の章和元年(西暦八七)には、莎車(今の葉爾羌)龜茲(今の庫車)温宿(今の阿克蘇)姑墨(今の拜)尉犂(今の烏什)五國の聯合軍五萬を、詭計を用ゐて、その勢力を分割せしめ、一擧にして之を撃破して居る。章帝の子和帝の永元二年(西暦九〇)には大月氏七萬の侵入軍を、持久の計略をかけて、降服させて居る。かくて和帝はその翌年(西暦九一)に西域都護府を再興して、班超をその都護に任じた。ついで永元六年(西暦九四)には、西域一帶に班超の威風に靡き、監子を送つて漢に歸順するもの、五十餘國に及んだ。班超はこの功勞によつて定遠侯に封ぜられ、年來の素懷を遂げた譯である。この前後二十年に渉れる班超の外交軍略の手腕、誠に感服の外ない。彼の成功は決して偶然でないと思ふ。
班超は西域都護の任に在ること十三年の間に、漢の國威を遠くペルシア方面まで發揚させた。彼が大秦(ローマ帝國)と交通を開かんために、部將甘英を派遣したのは、永元九年(西暦九七)のことである。甘英が使命を果さずに、ペルシア灣頭から東歸したのは、千歳の下なほ遺憾に堪へざる次第である。
流石の班超も寄る年波に敵し兼ね、しばしば辭任を歎願したが、朝廷では彼に代り得べき適任者なき故、中々許可とならぬ。最後に彼の妹の班昭は、兄に代つて悲痛なる上書をした。此上書は『後漢書』の班超傳に附載されてあるが、筆情兼ね備はる點に於て、孔明の出師表や、李密の陳情表に比敵し得べき名文と思ふ。出師表は忠義を骨子とし、陳情表は孝行を骨子とし、班昭のは友情を骨子として居る。和帝も班昭の至情に感動されて、班超の歸國を許した。彼は永元十四年(西暦一〇二)八月に、都の洛陽に到着いたし、その翌九月に病死した。年は七十一である。三十年間思慕已まなかつた中國の首都で瞑目したのは、彼にとつて寧ろ望外の幸と申さねばならぬ。