三
彼の後任者として西域都護となつたのは任尚である。任尚は烏桓や匈奴の塞外種族と交渉の任に當つた經驗もあり、又西域の事務を管掌した經驗もあり、當時に在つては、最も適當なる班超の後任者と認められて居つた。併しその實任尚は到底班超だけの度量がない。當時塞外に居る胥吏士卒らは、弛刑とて、刑状持ちで執行猶豫された者が多い。これらの吏卒を利用するのは、度胸のある豪傑でなけねばならぬ。然るに任尚は班超の忠告を無視して、餘りに嚴急な取締をなした故、忽ち部下の反抗を招き、續きて西域諸國も離叛いたし、折角班超の圖も、僅か五年の間に破壞せられ、西域都護府も閉鎖さるることとなつた。
支那の歴代を通覽すると、塞外經營に力を盡した時代も尠なくない。その時代毎に相當の人物も出て居る。併しその功業に於て、その人物に於て、班超の前に班超なく、班超の後に班超がない。梁啓超が曾て班超を贊して、
吾讀後漢書。吾乃知我二千年前之先民。有以一身而兼克(クライヴ)哈(ヘースチングス)二傑之所長。(中略)斯眞千古之快男兒。斯眞世界之大英雄。斯何人。斯則班侯(定遠侯班超)是已。
と申して居るが、必ずしも溢美過褒といへぬ。
吾が輩が特に班超に心を寄せる所以は、彼はかかる種類の人物に普通な、殺伐殘忍などいふ缺點は微塵もなく、人格の如何にも温良恭謙なことである。
(一) 彼は母に事へてよく孝に、兄に對してよく悌であつた。
(二) 彼は家風とはいへ、文筆にも達して居つたことは『後漢書』の本傳の上疏を見ても明白である。
(三) 彼は決して塞外人を虐殺せなかつた。戰場での俘虜も、大抵はその生命を全くしてやつた。彼が塞外人の心服を得た一原因は、ここに在ると思ふ。和帝の詔書に班超の功を稱して、「得遠夷之和。同異俗之心」とあるのは此點を指したものであらう。
(四) 曾て李邑といふ者、班超を讒して、西域經營を中止せしめん陰謀を廻らしたことがある。その李邑がやがて班超の許に往きて、その命令を奉ぜねばならぬこととなつた。班超の部下は、この李邑を捕へて讒言の復讐をなさんことを勸めたが、班超は「内省不疚。何䘏人言」とて、李邑をよく待遇した。かかる度量あればこそよく人和を得て偉功を奏し得たのであらう。
班超に就いて尚ほ記憶すべきことは彼の一門に人物の多いことである。男といはず、女といはず、彼の一門には人物が多い。かく人物揃ひの一門は世に儔稀であらうと思ふ。其略系は次の如くである。(姓名の右側に○を施してある者は文に傑ぐれ、△を施したのは武に秀でた人である。)
┌班婕妤
└班穉―班彪┬班固
├班超―班勇
└班昭(曹大家)
班婕妤は西漢の成帝の女官で、古有樊姫(周代の賢婦人)、今有班婕妤と評された程、婦徳の高い人である。怨歌行、自悼賦等はその文才を窺ふに十分である。班彪は實に『漢書』の起稿者で、またその北征賦、王命論の作者として聞こえて居る。班固は歴史家として文章家として、支那有數の人、殊更に紹介するを要せぬ。班昭は支那一流の女教育家である。曹世叔の妻となつたが、世叔早世の後、和帝の信任を受け、宮中に入りて皇后以下、諸女官の師匠となつた。宮中彼を尊びて大家(先生)といふ。故に曹大家として當時に知られて居る。彼は女子教育の目的で『女誡』七篇を作つた。この『女誡』は支那に於ける『女大學』である。班昭は又『漢書』の編纂に關係して居る。『漢書』は班彪が起稿し、班固が實に編纂したけれど、その八表及び天文志だけは、兄の死後に、班昭が續成した。故に『漢書』は班氏の父子兄妹三人の手を經て、完成した譯である。班昭の文才の高きことは、さきに紹介した爲兄求代疏一篇でも證明することが出來る。實に學徳才三絶の賢婦人と申さねばならぬ。班勇は父班超の死後、順帝(章帝の曾孫)の世に朝廷の命を受けて、龜茲、疏勒、莎車、于闐等十七國を征服した。故あつて中途にして召還されて、十分の偉功を奏することが出來なかつたが、兔に角東漢の西域經營の最後を飾つた一人である。彼も亦文筆の嗜あつて、今の『後漢書』の西域傳は、多くその記録に本づいたものと傳へられて居る。
(大正六年一月十七日―十九日『大阪朝日新聞』所載)