「性格」概念の理論的使命
――一つの計画に就いて――
性格の概念は個性の夫と似ているかのように見えるであろう、併し二つは全くその成立を異にした二つの概念である。初めにこのことを決めてかかろう。
吾々が欲すると否とに関らず現に吾々が相続している理論的遺産に於て、最も遍在し最も有力な根本概念は、第一に普遍者の概念であろう。蓋し一般に理論の構造を形式的に――何か論理的に――見るならば、この概念が中心的な勢力を占めることは当然である。というのは理論の一切の内容はただ普遍者と関係することによってのみ論理的であり得るのである。理論の実際的な方法の上での順序は何であるとしても、論理の秩序から云うならば、まず第一に普遍者が掲げられ、之から普遍者ならぬものが引き出される、という形式が具わっている。普遍者に対する普遍者ならぬもの、之は形式的に――何か論理的に――特殊者乃至個別者である*。特殊者乃至個別者は、理論的遺産の形式から見て、第二に有力な根本概念であろう。併し特殊者乃至個別者は如何にして普遍者から引き出されるか。
* 人々はすぐ様ヘーゲルを連想してはならない。ヘーゲルの論理学は、従ってその普遍者と特殊乃至個別者は吾々にとって、より根本的な特別の関心を要求する。
弁証法によるか演繹法によるか、それとも問題提出の仕方を全く逆にして、帰納法によるか、などを決めようとするのではない。そのような方法は、論理に関する理論の又は単に理論の、手続きに属するから、前に示された通り、今の問題とは関係がない。そうではなくして、論理の――理論のではない――秩序に於て、普遍者から特殊者乃至個別者がどのようにして引き出されるか、を吾々は問うている。之を引き出す機能をもつ媒介者は個別化原理に外ならない*。普遍者はそれ自身が個別化――之に加え又は之から差し引く――されることによって特殊者乃至個別者となる、と云うのである。個別化が目的とする終点は個物又はそれがもつ個性と呼ばれる。個物(個性)の概念は、第三の根本概念として普遍者に対して反対的に働きつつ、従来の理論一般を形式的に支配しているであろう。
* 個別化原理が時間であるとか空間であるとかは今は顧みない。之を形式的に理解すべきである。例えばドゥンス・スコトゥスのそれ。
論理家とも呼ばれるべき傾向の人々にとっては普遍者が、之に反して所謂生命哲学者達にとっては個性が、尊敬すべく愛着すべき根本概念であるかのように見える。前者にとっては普遍者は疑うべからざる課題であり、後者にとっては個性が凡ての問題の解決を約束する合言葉であるかのように見える。蓋し両者は理論に於ける好話柄であるように見える。或る人々は如何なる思想家の思想に就いても普遍者を、他の人々は如何なる思想家の思想に就いても個性を、専らテーマとしようと欲する。かくして例えばプラトンは普遍者の、アリストテレスは個性の、宗家であるかのように解釈せられる、等々。この場合、普遍者は個性に関係づけられ、又個性は普遍者に関係づけられ、そして、ただそうしてのみ人々の問題となるのである。特に、個性は、ただ個性と普遍者との関係に於てのみ、問われ得るのである。個性概念は従って常に個別化原理と共に――普遍者への関係に於て――理解されなければならないものである。
個別化原理が事実、時間乃至空間として与えられ得たことを吾々は注意しよう。この場合時間乃至空間を一般的に云うならば、観念的であるにせよ現実的であるにせよ何か一般に外延的なるものにぞくすることを、夫は意味するに外ならない。この外延的なるもの――それは連続であるが――の上に於て、即ち之を一つの原理として、限定されたものが、恰も個物(個性)の最初の規定を云い表わす。この場合個物(個性)は連続的なる外延者の限定として、限界を有つものとして、現われる。個物はこの限界によって他の個物から区別せられ、この限界に於て他の個物に連続している。事実人々は或る事物を個物として知ろうと欲する時、即ちそれがもつ個性を多少なりとも明らかにしようとする時、その事物と他の事物との連続を仮定した上で、最初に両者の限界を見出し、かくて両者の区別を与えることによって目的の第一歩を達したものとするであろう。個物(個性)は常に限界を与え得られることを以て、その最初の概念規定とするのである。次に、仮りにこの個別化原理が、個物と個物との間隙を埋めていた当の連続を否定したとして見よう。残るものは断続的な原子である。個別化原理は原子に至って働きを停止する。原子(A-tom)は分割し得ざるもの、もはや個別化し得ざるものを意味し、そしてこれこそが個物(In-dividuum)であるのである。かくて個別化原理の終点に於て、個物(個性)の概念は原子として、分つべからざる単一者として(時には又モナドとして)窮極的に現われる。
個物の概念が、従って又個物のもつ個性の概念が、常に個別化原理と共に――普遍者への関係に於て――しか理解されない所以が之である。個別化の原理に於て、個物(個性)は他との限界を持つものとしてまずあり、そして窮極に於ては原子としてある。
性格の概念は然るに、個別化原理とは独立な成立を有っている処にその特色を示している。今それを明らかにしよう。
二つの事物の限界が与えられない時に於ても、二つの事物の性格は夫々明らかであることが出来る。植物と動物との限界は決して正確に与えられ得ないにも拘らず、即ち両者を区別するに充分な徴標が見出し難いにも拘らず、それを理由にして動物と植物との夫々の特色が不明であると云うならば、それは少なくとも常識の忠実な告白ではないであろう。吾々は事実、両者の性格を夫々――常識的に*――知っており、又その限り両者の区別を、云うならば概略に於て知っているのであって、日常生活にとってはこの概略さで充分であり、又この概略さに止まらなければ日常生活は支えられないであろう。ただこのように概略に於て性格を理解することによっては、動物と植物との限界が少しも与えられないというまでである(実は与えられる必要がないのである)。動物と植物との関係に於てはそれにしても一旦限界が問題となることが出来たが、之と異って全く限界が問題となることの出来ない場合に於ても亦性格は明らかにされ得るであろう。例えば欧州文明に於けるギリシア思想とヘブライ思想との夫々の性格の如きがそれである。或る見方からすれば全文明がギリシア的性格をもち、又他の見方からすればこの同じ全文明が又ヘブライ的性格をもつであろう。性格は限界――この幾何学的なる規定――を有つことなくして、云わば力学的に、否、個性―モナドも亦力学的であると云うならば、化学的に、機能することが出来る。性格は相互に浸透する(この意味に於て又性格は、領域とは関係がない。尤もモナドも亦そうである**)。性格概念が限界の概念とは無関係であることが明らかとなったであろう。すでに一般に限界と無関係であるから、性格が最後の限界としての単一者として現われなければならない動機は何処にも存在しない筈である。分割出来ないという性質を持ち出しても、それによっては性格概念の解明に何の変化も起こされないであろう。かくて性格は限界や分割とは何の関係をもつものでもない。そして限界や分割は個別化原理に帰するのであった、故に性格概念は個別化原理からは独立な概念成立の動機を有っているのでなければならない。
* 性格と常識との関係は重大である。後に之を明らかにしよう。
** ライプニツのモナドの概念は個物乃至個性の概念の最も精練された場合の一つであるであろう。それにも拘らずモナドは遂に個別化原理からの制約を脱却することが出来ない。
人々は個物と個性とを区別せよと云うであろうか。個物は一つの限界概念であり、之に反して個性は、単なる限界概念ではなくして窮極的なそれであり、そして正にその故にこの規定を圧倒するに足るほどの豊富な他の内容を有つ、と云うであろうか。併しそれにしても個性概念は概念成立の歴史に於て、その概念の動機に於て、個別化原理に由来することは否定出来ない。性格概念は然るに、そのような歴史から、そのような動機から、自由である。
性格という言葉の原始的な意味は刻印である。日常的な具象的事物――凡そ学問の対象としてのみ存在し得ると考えられるような事物を私は以下考察の外に置く――の性格とは、この事物が有つ、即ちそれに与えられた、刻印を指す。事物は例えばAなるものとして、刻印されて、あるのである。同一の事物も様々の刻印を捺されることによって、夫々の異った性格者として現われることが出来る。同一の行動が或いは賞嘆すべきものとして、或いは唾棄すべきものとして、刻印を捺されることの出来るのが事実であるであろう。性格は今事物の性格であったから云うまでもなく事物それ自身にぞくするのでなければならない、事物が有っている関係を離れて任意な性格を刻印することは許されない。仮にそれを許すとしたならばそのような性格は結局性格としては受け取られないであろう。それは性格概念自身に矛盾するからである。処がその事物それ自身に固有でありながらそれにも拘らず性格は、その事物それ自身から一応離れ得る性格を有っていなくてはならない、同一の事物が様々の性格を有つものとして現われ得たからである。今仮りに事物の性格という概念の代りに事物の本質という概念を引き合わせて見ることが有効であると思われる。事物の本質はこの概念それ自身から必然に、事物への固有を意味する。事物Aの本質はαでありBの本質はβであるとして、人々はAとBの関係をαとβとの関係によって考察する事が出来るのである。この場合Aの本質がαとして或いは又βとして、現われ得るのであってはならない。何となれば本質はなる程事物に就いて人々が発見したものである外はないが、併し又人々によって与えられたという規定をもつのであっては事物の本質の概念ではない。本質は常に、人々によってどう見出されようとも結局に於てはそれとは独立に、事物それ自身に具わっている処の、根本的な性質を意味する。そこで同一の事物Aの本質がαとなって現われたりβとなって現われたり出来るということは――たとい事実上の誤謬として起こるにしても――本質概念自身から云って許されない。本質概念は本質を見出した人々への関係とは独立に、一旦事実上この関係を通過しなければならないが併し結局のテロスに於てこの関係を脱却して、みずからを成立せしめている。それは人々にとって彼方にある。これを押しつめるならば本質は正に一つの物自体――之こそ言葉通りの事物の本質ではないか――概念に帰着する処に特色をもつ。Aなる物それ自身――物の本質――は苟くもそれ自身であって現象でない限り、αとしてもβとしても現われることを許されない筈ではないか。処で性格概念は恰もこの点に於て本質概念と根本的に異っている。性格――それは与えられた刻印であった――は常に、人々にとって、αとして或いは又βとして現われ得るのでなければならない。性格は之を与える人々への関係を、その結局のテロスに於ても脱却しない処に、特色を有つ。刻印は常に与えられるべきものであろう。本質概念の目的は――理念は――人々への関係を切り離す処に、之に反して性格概念の目的は之を最後まで持ち続ける処に、夫々の面目を現わしている。性格は人々への関係を含むことによってのみ成立する概念である。刻印――それは与えられる――の概念が恰も之を注意せしめるであろう。