三
英子の手紙の数が次第に少くなって来た。先には私が手紙を出せばそれに返事をくれたものだったが、正月の末頃になると私の二本の手紙に対して漸く短い一通しかくれないようになった。然しそういう外的のことは私は容易に許し得たであろう。ただ私の心を最も淋しくさせたのは、その内容の変化であった。先にはよく愛に苦しむ心の響きを直接に伝えて来たが、その頃はただ霑いのない抽象的な文句の羅列のみが私の手元に届いた。彼女の心の響をそのままに捉え得る言葉は何も見出すことが出来なかった。
それでも私はやはり時々英子の家に訪ねて行った。然し私達の間には冷たい垣が何時のまにか出来ていた。英子は自分の内心をかばうような態度で私に接した。私も自分の心をじっと胸の奥に秘める外仕方がなかった。
「私はあなたの幸福を祈っています。」そんなことを私はいった。「何時までも自分の本当の心に忠実であって下さい。私があなたに願うのはただそれだけです。」
「あなたは私を愛して下さらないの?」と英子は震えを帯びた声で云った。
「そんなことを私に尋ねるんですか。……私が度々くり返して信じて下さいと云ったのは何のためでしょう。私のこの信念をあなたに通じられないのは、私の力が足りないせいかも知れません。然し私は自分の成長を信じています。そして私達の愛を肯定したい。」
「いえいえそのことではありません。……あなたは此頃冷たいんですもの。」
「私にはあなたが冷たく見える。そしてあなたの冷たい態度に触れる時、私は自分の心まで冷たくなって来ます。どうしていいか分りません。……どうか私にその冷たさを触れさせないようにして下さい。熱い信念を燃やさして下さい。」
「それは私から申し上げたいことですの。」
然し私達の会話は、そういうこと以上一歩も出なかった。何か互に避け合っているものがあるのを私は感ずることが出来た。それならばなぜ私はその垣をつき破って進もうとしなかったのか?……ああ私は英子の運命と自分の運命とをただじっと厳粛に見つめていたのだ。そして私は英子と相対している沈黙のうちに息づまるような気がした。
英子もそれを苦しんでいたに違いない。彼女はよくお茶を差上げるからと云っては私を母の所へ導いて行った。
春子さんは何時も私をやさしくいたわってくれた。身体に注意しなければいけないなどとよく親切に云ってくれた。私は彼女の前に出ると何時も慈母の前に在るがような気持ちを覚ゆるのであった。
「この頃お国のお母さんは御丈夫でいらっしゃいますか。大分暫く御無沙汰ばかり致して居りますが。」
「ええ相変らず病身ですが、床につくほどのことはありませんでしょう。」
「それはいけませんですね。あなたも時々お帰りになって上げた方がお宜しいでしょう。」
「ですが何やかや忙しいものですから。」
「そうでございましょうね。でもお若いうちに勉強なさるのが一番お宜しいですよ。私共の信夫みたようではほんとうに困ってしまいます。それでも此の節あなたはお身体も余りよくって被居らないようですから、お気をつけなさらないとね。」
「身体の方はどうも留守になり勝ちなものですから。」
「ええどうしてもお若いうちはそうなんでございましょうね。」
私は春子さんからそんなことを云われると、彼女の前にひれ伏したくなるのであった。そして彼女の前に自分の内心の苦悶をおし隠すことがどんなにか悲しかった。で私は彼女の懐から逃げ出すようにして辞し去るのを常とした。
然し私の一番の苦痛は屡々英子の家に橋本兄妹が出入りするのを見ることであった。私は何時のまにか英子の家の中心から遠ざかって、痩犬のように彼女のうちに窺い寄る自分の姿を見出した。私が姿を現わすと、皆の晴やかな会談が急に途絶えて陰鬱な影が射すのを、私はよく知っていた。私は特に欽一郎と対座するのを恐れた。そして英子の家の前に吾妻下駄と竝んだ男の駒下駄を見ると、私はそのまま足を返した。
私は一人で当もなく夜の街路を歩き廻った。僅かの友達をもなるべく避けるようにした。そして仄暗い裏通りを首垂れながら歩いている自分の孤影を見出しては、憂鬱な気分が益々濃くなっていった。
私は英子と欽一郎との間に如何なる精神上の交通があるかを知らなかった。然し私の頭には、彼等二人の竝んだ顔がしつこく刻みつけられるようになった。が私はそれを敢てどうしようとも思わなかった。
もし彼等が本当の愛で動き出したとしても、そして私の愛が破らるるにしても、私はそれを許し得るであろうと自ら云った。私は彼等の真の幸福を願い得る、私は自分一人になっても猶生きてゆき得る、私は自分の運命を泣きながらも肯定し育ててゆける、然し私は彼等の運命の流れに手を差出し得るだけの力を持たないと自分に云った。とは云え私がこれまで信じてきたもの、私が胸のうちに育んできた愛、それは何処へ行くのであろう? そう思う時、私は自分の足元が暗くなって倒れそうな気がした。
或る星の輝いた寒い晩、私はぼんやり種々なことを考えながら下宿に帰って来た。すると女中が先刻女の人が訪ねて来たことを知らした。名前を云わないでそのまま帰ったそうである。服装やなんかを聞き質してみてもさっぱり要領を得なかった。
私は自分を訪ねてくれるような女の知人を持たなかった。で英子や静子を頭に浮べてみたが、どうもそれらしくなかった。ふとお島ではないかと思ったが、お島なら一度来たことがあるから名前を云わないで帰る筈はないと思い返した。然しその時、それを種々思い廻らしてみるだけの余裕が私の心にはなかった。何か重苦しい憂鬱が私の心に一杯澱んでいた。
それでも翌日になるとそのことが妙に気になり出した。私は英子に儚ない望みをかけた。然し今私達の運命は推移の最中にある、軽々しく動いてはいけない、と私は思った。それが何を齎すかはやがて分るであろう、と私は思った。
二三日私は下宿に引籠っていた。手当り次第に書物を読みかけてはすぐに疲れて、床を自分で敷いて苦しい昼寝を貪った。夜は眠れないままに催眠剤を取った。がその間英子からは何の便りもなかった。
四日目の晩、私は節々の痛い身を運んで英子の家まで歩いて行った。電車に乗って多くの人と顔を合せるのが嫌だったから。
玄関に出て私を迎えてくれたのは英子自身であった。春子さんが丁度不在だったので、私は英子と暫く苦しい対座を続けた。彼女は妙に興奮していた。
「あなたは三四日前に私の下宿を訪ねては下さらなかったのですか。」と私は云った。
「いいえ。」と英子は簡単に答えて私の顔を見守った。
その時私はほっと安堵の思いをした。何故だか自分でも知らなかった。
私達の間には瀬戸の大きい円火鉢に炭火が一杯熾っていた。私はその赤い火をじっと見守った。如何とも出来ないような張りつめた思いが胸に湧いて来た。然し私は口に出すべき適当な言葉が見出せなかった。
「この頃あなたはなぜそう黙ってばかり居るのですか。」と私は云った。
英子は黙って私の顔を見つめた。私は彼女の表情のうちに内心を押隠した努力の影を見ることが出来た。
「私はあなたの運命に手を差出そうとする力はありません。然しあなたの心にはある推移があるような気がします。私はそれを兎や角云いはしません。ただ御自分の心に対して不真面目であってはいけません。動くならば全人格的に動いて下さい。私はあなたの姿を見ると何処か危いような気がしてならない。」
「私を信じては下さらないの?」
「ああ私はどういう風に信じていいのでしょう。私達の、いや私の愛をあなたはどうせよと仰言るのです? 私の愛の信念にあなたは何を与えて下すったか……。」
「私が?……いえあなたは私に何にも与えては下さらなかった。そして私にばかり……。」
そう云いかけて英子はまたきっと唇を結んでしまった。
私は何とも云うことが出来なかった。私は強い自分の信念と愛とを彼女に与えようとして来た。然し彼女の要求は何であったか。何を彼女は私に求めようとしたか。
「云って下さい。もっともっと。……私は苦しいんですもの。」と彼女は云った。
「何を云えというんです? 私はただ信ずるというきり外の言葉を持ちません。今でも強く信じています。然し何を信じたらいいのでしょう。私はあなたの前に、あなたの運命の前に、罪人のように頭を下げて祈っているのです。」
「そんなに私を苦しめなすっては……。」と英子は吐き出すようにして云った。「私は一晩中泣きながら考えたこともありましたの。けれど何うしていいか分らないんですもの。もっと私に考えさして下さい。……私はそうして被居るあなたが恐いんです。」
「あなたは自分の運命を恐れているんです。自分ではっきり自分の道を選ばなければいけません。」
「あなたは私に何にも教えて下さらないんですもの。ちっとも私の心を察して下さらないんですもの。……あなたは御自分のことばかり考えて被居るのです、そして私をほんとうに愛しては下さらない。」
英子は物に脅えたように息をつめた。そして彼女の眼のうちには、重苦しい圧迫の下から遁れ出ようとするような反抗の光りがあった。
「私はあなたの心を掠奪しようとはしない。ただあなたの本当の心の命ずる通りに動いて下さい。」
その時英子ははらはらと涙を流した。私はどうしていいか分らなかった。
「ね、許して下さい!」と私は低い声で彼女に云った。「私があなたを苦しめたのなら、許して下さい。」
英子は何とも答えなかった。そしてぐたりと首を垂れたまま私の手を執った。私は息をつめて彼女の眼の中を覗き込んだ。
ああその時の私達の baiser が如何に私の胸を搾ったか。然しそれは私達の最後の embrassement であったのだ。
英子は蒼白い顔をしてじっと火鉢の火を見つめていた。私は炭火の反映したその緊張した顔を見ながら、如何に私が彼女を苦しめているかを思った。そして彼女を苦しめることが私の胸を刺した。私は「あなたを信ずる。」と口の中で云った。そして私はもう帰ろうと思って立ち上った。