「静子さんはお上手だから私と橋本さんとでかかりましょう。あなたは静子さんの方の遊軍におなりなさいな。……お母さん読んで下さるわね。」
「それじゃ駄目だわ。」と静子は云ったが、私の方をちらと見た。
英子は札を半分ばかり欽一郎の方に持たした。「僕はこんなに沢山は駄目ですよ。」と彼は云ったが、英子はそれを無理に押し付けてしまった。
「また英子さんのチラニーが初まった。」と彼は笑っていた。
勝負は丁度合っていた、と云うより寧ろ誰も真剣になっていなかったという方が正当であったかも知れない。
私は僅かの札数を持って、勝負よりも寧ろ春子さんの美声を楽しんでいた。彼女は英子の何処か濁りのある声とは似てもつかぬ美しい声を持っていた。読札を電燈の光りにかざしながら、少し小首を傾けて何時までも疲れない澄んだ声で読み続けた。それから私はまた静子の思ったより巧みなのに驚いた。
いい加減に疲れた頃私達は歌留多を止した。そして皆で菓子や蜜柑をつまみながらまた会話を続けた。英子は始終欽一郎を上からおっ被せるような口の利き方をした。そして私の耳には、「また英子さんのチラニーが初まった。」という男の声が残っていた。
英子の家から出たのは十一時近くであった。私は橋本兄妹と連れ立って淋しい通りを神楽坂下まで歩いて来た。
「そのうち私共のうちで歌留多会をやりますから、是非いらして下さい。」と欽一郎は私に云った。
「え有難う。」と私は答えた。
「ああいう遊びは呑気にやっていると、やりいいものですね。」
「ええ。」
「私は何時も平安朝時代は生活が気楽で楽しかったろうとよく思います。此頃のように頭ばかりがいやに緊張した生活をしていると、却って人間が愚かになるような気がしますが。」
「そうかも知れません。ですが自覚は何処までも必要だと私は思っています。」
「ええそう云う努力はごく必要でしょうな。」
私達はそれきり口を噤んだ。そして私は別れを告げて神楽坂下から電車に乗った。静子が電車の中の私に軽く頭を下げたのを、私はちらと眺めた。
下宿に帰ると私は急に不快な疲労を覚えた。そしてその疲労の下から苛ら立たしい気持ちが湧いて来た。私はそれをぐっと押えつけて眼を閉じたまま、暫くの間机にもたれていた。
ある悪寒に襲われて眼を開くと、火鉢の炭火はもう白い灰になっていた。でそのまま立ち上って蒲団の中に倒れるようにもぐり込んだ。そしてほろろ寒い中に私は両手を胸に組んだ。
その翌日英子を訪ねると、彼女は橋本のうちに行っていて不在であった。