有吉は和服の着流しであったが、当時まだ現役で、短く刈った頭髪と長い口髭、外気に曝された皮膚、軍帽に練えられた額の肉附、じかに露骨に対象へ向けらるる大きな眼玉……などを以てして、明かに軍事的なものを一身に帯びていた。そして主客顔を見合した瞬間、その軍事的なものが、互の頭にはっきりと映った。――杉本は学校を卒業した時、在学中の徴兵検査で第一乙種合格のため、兵役についての境界線に立っていたので、何等かの便宜を望んで、有吉の助力を求めに行った。すると意外にも、国民皆兵主義の理論にぶつかった。其後彼は徴集を免除されはしたが、そのため、つまらないことをしたものだと思ったのである。――有吉は其後杉本に逢うと、彼に後ればせの好意を示すためか、或は世界的思潮に共鳴してか、国費全体と軍備費との数字的比率を持出し、軍備制限の必要を説き、最小限度の軍備に就ての自説を主張した。すると意外にも、極端な軍国主義か全然の軍備撤廃か、初期マホメット教国かイワンの国か、どちらかを選択すべきだという意見にぶつかった。そして、つまらないことを云い出したものだと思ったのである。
「君とは随分、議論を闘わしたが、其後……。」言葉を切って有吉は室の中を見廻した。「相変らず勉強のようですね。……僕も、この頃、軍事の中だけに籠らないで、一歩ふみ出したいと思ってるから、君に教えを乞わなくちゃならんことも、いろいろ出てきそうで……。」
変な挨拶である。その裏の気持を読み取ろうとして、杉本は、相手の顔色に眼をつけた。有吉は眼を外らして、書棚に並んでる、和洋雑多な書籍を物色し初めた。
バラックとも云ってよいほどの、粗末なアパートの、和洋折衷の室である。四角な区劃、それが、入口の控室で切取れ、押入で切取られ、下が三尺の戸棚になってる床あきで凹み、奥の室に通ずる襖、硝子戸の六尺の窓……。片隅に机を据えて、その横で……。主客とも、何だかその処を得ないような様子である。杉本は、不器用な手附で、茶と菓子とをすすめ、有吉は、書棚の方へにじり寄っていた。
「ほう、随分多方面なものが……。クロポトキン……明快な論理だそうですね。」
「少し集めていますが、隙が出来たら読んでみるつもりです。」
「アナトール・フランス……面白いですか。」
「それも、まだ読んでいないんです。」
「マジー……と、魔法ですか。これは愉快でしょう。」
「それも、実はまだ……。」
「…………」
ちぐはぐな問答が続く……。
有吉は坐り直して、渋茶をすすった。
「君は、自由に研究が出来て、羨しいですね。僕なんか、隙がないものだから……。それで、ロシア通の話を聞けば、労農政府に同感してくるし、イタリア通の話を聞けば、黒シャツに同感してくるし、去就に迷う始末なんで……は、は、はっ……。」
突然笑い出した。が、案外真剣で……。
「君はどう考えるですか。」
「え?……。」
そして二人の間に、全く観念的な会話が展開していった。要約すれば――
杉本は云うのである。――ファシズムには、それ自身二つの矛盾を含んでいる。ファシズムは元来、ブールジョアジーの攻勢的武器であって、その対敵目標は、ブールジョアジー以外の凡てにある筈だ。それが、発展の道程に於て、広く大衆に――小ブールジョアジーのみならず、小農民階級やプロレタリアートの或る層にまで、立脚しようとする。そこに機構的矛盾がある。また、ファシズムは、それ自身の独裁を目的とする。随って、議会政治の無用――立法権に対する執行権の優越を、肯定するものである。然るに、それを議会政治の基礎の上に獲得しようとする。そこに手段的矛盾がある……。
有吉は心持ち眉をひそめていた。が敢て抗弁はしなかった。杉本はその肉の厚い顔付に、かすかな笑いを漂わしていた。
杉本は云うのである。――ボルシェヴィキは仮面によって成立つ。彼等一派は、民衆の仮面をつけた纂奪者である。民衆の手に政権を戦い取ったと称しながら、実は民衆を戦い取ったのだ。十パーセントの譲歩をして、九十パーセントの権力を掌握する。そしてこの権力の獲得と維持のためには、手段と目的とを置換することさえ辞さない。マルクスの理論は正しかろうとも、それが彼等労働政治家の手に渡る時には、そこに反対物への転化的飛躍が起る。近代の政治は、権力の予想なしには成立しない。権力の予想を失う時、それはもはや政治ではなくなる。この思想を彼等は理解しない。なぜなら、それは彼等の政治的権力と矛盾するからだ……。
此度は杉本が、かすかな苛立ちで眉をひそめていた。そして有吉は、薄笑いを含んで、髭をひねっていた。
二人の視線が逢った時、有吉は云った。
「君の説は独特で、なかなか面白い……。」
それが、一閃の光みたいに、杉本の顔を輝かした。思想の底に触れない相手の微笑が、自然と、彼をも微笑ました。
「なあに、みな受売りです。」
「受売り……。」
そして、杉本の微笑につりこまれて、突然声高に笑い出した。
「はっはっは……そう韜晦せんでもいいでしょう。意見は意見だし……。」
云いかけて彼は、忘れてたものを急に思い出したように、眼玉をぎょろりとさして、あたりを見廻した。
「一体君は、韜晦癖があっていかん。あの……今日は、どうしたんです。僕に紹介してもいいでしょう。」
「誰のことです。」
「この前、誰か、女のひとが、いたようですが……。」
彼の揶揄的な微笑に対して、杉本は直截に答えた。
「あの女ですか。今日は……出勤していますよ。」
「出勤……。」
「カフェーの女給です。」
「ほう……。そして君と……。」
「共同生活を、一時、しているんです。そのうちには、また、別れることになるでしょう。」
有吉は、此度は本当に眉をひそめた。下唇の厚いその口から、強い語気が洩れた。
「いかん、それはいかん。」
有吉は云うのである。――くろうとの商売人と遊ぶのは、男として、場合によっては恕すべき点がある。然し、しろうとの女を弄ぶのは、断じて排斥すべきだ。ヨーロッパの大都市では、男女関係に於て、くろうと、しろうとの区別が、一般に殆んど無視されている。それは、徳操が頽廃してる証拠だ。日本人はまだ、両者の区別をはっきりつけている。そこに、日本の立派な徳操がある。その徳操こそ、日本の善良な風俗を維持するものだ……。
杉本は平然としていた。そして云うのである。――そういう説は、女に対する封建的な奴隷制度を是認する、誤った立脚点からのみ出発するものだ……。
有吉は、大きな眼玉を心持ちほてらして、相手の顔を見据えていた。長い髭がしゃちこばった。
「理屈と実行とは別だ。君は、そんな……不徳な心でいるから……この頃、田代さんのところにも……。」
「…………」
「自分でやましいと思うから、顔出しが出来ないのならば、まだ取柄があるが……。」
「それは別のことです。」と杉本はあくまでも冷かった。「時々伺いたいと思っていますが、何だか、共通の話題もないし、余りに生活の距りが大きいので、ただお邪魔になるばかりのような気がして……。」
「ばかな、それは君の方のひがみだ。田代さんとは、よく君の噂が出る、君のことを聞かれる……。だいぶ左傾してるようだが、どうだろう、少し意見を闘わしてみたいものだと、そんなことも云われていた。時々顔を出すくらいのことは……。」
「それはよく知っています。父が死んでから、ずっと学費のお世話になってきたんですから、影で、感謝しています。僕が、個人的に感謝していいのは、世の中に、あの人一人くらいなものです。」
云いすぎたかな……という気持で、杉本は相手の顔色を窺った。が有吉は、何か別なことを考えてるらしく、煙草を吹かしながら、窓から夜の空を眺めていた。やがて、その眼を手首の時計に落しながら、ふいに云った。
「君のそういう気持が確かなら、こんど、田代さんのところに来ませんか。」
「…………」
杉本は、自分の皮肉な言葉が、逆の効果を持ったらしいのを感じた。
「実は、来月、十月の一日に、暑気のため一月くり延して、震災の思い出……といったような主旨で、内輪の者だけが集る筈です。毎年やってきたので……君も知ってるでしょう。……昨年は、君はたしかに来なかったが……今年は是非出たらどうです。」
杉本は、奥深く、眼を光らした。
「昨年も……一昨年も……通知が来なかったものですから……。」
「手落だな。今年は僕が通知を出す筈だから……。」
「出席しましょう。」
その後の沈黙に、何かしら敵意らしいものが感ぜられた。有吉は俄に坐り直した。
「長くお邪魔してしまった……。ではその時までに、こちらも、論鋒を研いておきますよ、ははは……。」
有吉はも一度室の中を見廻して、悠揚たる様子で帰っていった。
杉本は、立ったまま、灰皿に堆くつもった煙草の吸殼を眺めた。それから、窓際に腰を掛けた。
「スパイめ!」
だが、変に憂欝に、膝頭に両肱をつき、両手に頣をもたして、考えこんだ……。
長くたってから、彼は顔を挙げて、室の中を見廻した。有吉の来訪が、不思議なものを齎して、彼は自分の住居を、初めて見るように眺めたのである。
向うの隅の、英子の小さな机、婦人雑誌、鳥の羽をさした筆立、電燈の笠にかかってる、凉しい色どりのリリアンの編物……。更に、奥の室との仕切が払われて、そこに、大きな鏡台、無数という感じの雑多な化粧壜、化粧刷毛、バスケット、派手な衣類が取散らされてる、仰向けの甲李の蓋……。
あの晩、夜更けに、彼女は破れるように扉を叩いて、彼のところへ飛込んできた。
「あたし、あたしだって……意趣返しをしてやる。」
視線を空に据え、下眼瞼と黒目の縁と、二つの円弧の間の、純白な一線から、大粒の涙を、ぼろぼろとこぼした。それから突然、笑い出して、彼の茫然とした顔を、不思議そうに眺めた。いきなり彼の首に飛びついてきた。