「さあ、キスして頂戴、キスして……。それだけ。それ以上は求めないことよ!」
英子が帰ってきた時、杉本はまだ瞑想に沈んでいた。彼女は静に歩み寄った。
「どうしたの?」
彼の顔に、苦笑の波紋がゆるやかに拡がっていった――徐々に夢からさめる者のように……。
彼女は急に、彼の肩と頸とに取縋って、木像をでも抱くように、抱きしめた……。
五
座敷には煌々と電燈がともり、障子を取払った縁先には、岐阜提燈がまたたき、庭の芝生には、あちこちに、高張が白面をそば立てていた。それから先は植込で、初秋の星空の下に、高く、黒々と蹲っている……。
座敷の正面、床柱のわきに、主人の田代芳輔は、老いた……というより、歳月に磨かれた渋い顔を、屈託のない微笑に和らげて、人々の談話よりも、その上を流れる戸外の夜気を楽しむ様子で、言葉少なに控えていた。縫紋の絽の羽織が上布の単衣の肩をすべっているのは、膝をくずしているからであろう。葉巻の煙が、ゆるく立昇る……。周囲には、年齢の意味でなく仕事の意味での、少壮の、代議士、実業家、官吏など、和服や洋服が、置き並べた食卓を取巻いている。食卓の白布に、水盤の盛花がはえて……料理は質素で、銚子の数が多く……。そして賑かに、だがどことなく落付いて、互に献酬したり、或は手酌で……。食卓の列の、半ばから後は人がなく、卓布と花と陶器とが淋しそう……。
その、座敷をすてた人々は、庭に散在していた。二三ヶ所に、卓子の寄合、椅子、長椅子、木のベンチ……。花も卓布もないが、大きな皿に堆く、サンドウィッチ、菓物、そして、サイダー、ビール、ウイスキー、コニャックなど。和洋種々の煙草……。強いリクールの、とろりとした液体が、煙草の煙にくもって……座敷よりも遙に、電燈の光と高張提燈の光との差を逆に、元気で粗野で騒々しく……。そしてあらゆる意味で少壮の、或は未完成の、型の出来ていない人々だった。
座敷では、時々、銚子を運ぶ女中たちが、酌はしないで往き来するだけが、無言の色彩を添えていた。彼女たちが、提燈の蝋燭を取代えたのは、もうだいぶ前のことだった。
この、田代家の、大震災記念の宴は、おかしな集会だった。料理が粗末で飲物が豊富なのは、多少その名にかなっていたが、そうした集りに当然あるべき、婦人や少年の姿は、少しも見えなかった。そしてただ、田代芳輔が、苦の活動範囲内の――今でも一派の糸を引いてる範囲内の、縁故の深い、重立った、男子ばかりであった。彼等は、何等かの意味で、田代芳輔が再び起つ――或は新らしく起つことを、信じていた。世間には発表されずにしまった或る対宮中問題の責を引いて、今ではただ、余生を楽しむらしい風をしているが、精力や富力からして、それで終るべき人物ではなかった。で、この集りでは、大震災の思い出も、話の主題となり得ないで、時事を中心とする政治経済の談話の、随伴物たるに過ぎなかった。而も、その政治経済上の問題も、断片的に、諷刺的に、暗黙の理解のうちに取扱われて、言葉で語られるよりも、言外の気味合で触れられることが多かった。外見、一夕の宴は、世間的な談笑のうちに過ぎていった。賢明な田代夫人は、早めに形式的に飯を出してしまうと、後の酒宴からは席をさけて、女中たちをも侍らせなかった。
その全体とは、少し調子がちがって、露骨に、辛辣に、詭弁的に、だが多少鈍重に、鈍感に、憚りなく談笑してる一群が、庭の一方にあった。強いリクールの瓶は多く、彼等の手に奪われていった。多くの漫画が、時には田代芳輔自身の漫画までが、或は細密に、或は横顔だけ、漫談のうちに描かれていった。哄笑が起った。そういう時、彼等の癖として、坐り直したり、立上ったり、一二歩あるき出したり……。その中に、有吉祐太郎が、愉快そうに髭をひねっていた。軍服で、勲五等の旭日章を一つ、胸につけていた。赤い太陽と白銀の光線とが、笑うたびに、光の反映を受けて、茶褐色の服地の上に浮出した……。
時間が過ぎて、夜空に、星の光がました。露の結ぼれかけてる気配の、植込から向うは、しんと静まり返って……。
やがて、座敷の方の人数が、少しずつ減っていった。田代芳輔は席を立って、袴なしの細そりした身体を、庭の方へ、一巡、静に運んでまわった――居間に引込む前に。
有吉等の一群の横に、高張の柱の影を受けた暗がりに、杉本浩は、卓子に肱をついて、ウイスキーの瓶を引寄せて、無言で、夢想に耽っていた。異邦人といった気持の、孤独感の中で、その夢想は幻覚的な形を取っていった――
――田代さんは、夫人を相手に、夕食の膳に向っている。膳――黒塗りの大きな餉台、その横手に、彼杉本も、同じ料理を前に、膝を正している。夫人の手で、二人の杯へ、九谷の銚子から、燗のぬるめの白鶴が、代る交る注がれる。その杯と、生物の多い新鮮な料理の箸との、合間合間に、田代さんは、杉本へ言葉をかける。最近の動静……未来の抱負……日常生活……それも、何をしてるか……何をするつもりか……どんな風か……といった調子の軽い問い。杉本は出来るだけ、当らず触らずの返事をする。話が、夭折した杉本の父親のことに及ぶ。豪い男だった、と田代さんは云う。君も父の子だ……と。どうにか生活出来るか……と。酒がうまそうである……。年齢の渋みのかかった艶のいい皮膚、半白の髪、毛の長い眉、底の見透せぬ老成した眼付、意志の頑強そうな口元……。そして、それを包んで、好々爺らしい鷹揚な態度……。酒がうまそうである。が杉本は、酒がうまくない。鼻のつんと高い、怜悧な、勝気な、痩せた夫人から、一挙一動を見て取られる、という意識ばかりではない。話が、杉本の身辺のこと以外に、一歩も出ないのである。学費を無条件で支給してくれたばかりでなく、卒業後のことは全く放任してくれてる。有難い恩人ではあるが……。
――俺はただ、この人にとっては、酒の肴になるだけのことだ。俺がこうして、御機嫌をとってるそのことが、俺の精神にどれだけの犠牲を要求するか。俺が貰った学費が、この人の富に、どれだけの犠牲を要求したか。両者のパーセンテージは……。恩義は、与える方では、与えることの享楽で償われ、受ける方では、受けることの感謝で払われてる筈だ。……この人は俺に、学費を与えることによって、奴隷根性を押付けるつもりではなかった筈だ……。
生活の距りが大きくて、話の接穂がないだけに、杉本は、そんなことを考えるのである。田代さんに、自慢話をするだけの老いこんだ自惚か、杉本に、気焔をあげるだけの軽薄な自信か、それが少しでもあったならば、その場は救われるのであろうが、生憎……。
だが、床柱を背に、後輩の代議士や実業家に囲まれてる田代さんも、やはり、杉本を晩酌の相手にしてる時と同じように、話頭の及ばない高みにあって、にこにこしながら、うまそうに酒を飲んでるのである……。
旋風の中の、そこだけ静かな、中心点……。この人は今に何かやるな……とそう杉本も思うのである。――
杉本は顔を挙げた。田代芳輔が通りかかっていた。杉本は立上った。
「やあ……。」眼にちらと、微笑の閃めきがよぎった。「ゆっくりしていってくれ給え。」
それだけで、彼はもう次の人へ眼を向けていた。
杉本はその後姿を見送った。最初の挨拶の時は兎も角、こんどは何か……。と思っていたのが、「ゆっくり議論を闘わしてみたい、」どころか、まるで違っていた。肩の少しこけた、肉附はよいが小柄に見える、なみの老人にすぎないが……。
田代芳輔の姿が奥に引込むと、元気な一団の中から、声が起った。
「さあ、これからが吾々の世界だ。」
大きな西瓜が一つ、宙に投り上げられた。
「早いぞ、西瓜は。」
「まあ見てろよ。」
先の尖った大きな三角ナイフを取って、ずぶりと二つに割って、中身をえぐって、ウイスキーを注いだ。
「こいつ、うまいことをしてやがる。」
四方から、大匙でしゃくい取られて、西瓜の一つは見るまに皮になった。
杉本も、いつか、そういう仲間に引入れられていた。が、多くは黙って飲食するだけで……。手入の届いた頭髪、口髭、ネクタイピン、勲章、胸のポケットから覗いてるハンカチ、折目の正しいズボン、とも糸の縫紋の羽織、軍服、絽の袴……そういうものの中にあって、彼の皺の多い古い合服が、変に目立っていた――それが、彼自身の意識にもうつって……。
「西瓜で思い出したが、」と杉本の側で声がした、「震災の時、河岸縁を、西瓜を一つ抱えて、一生懸命に走って行く小僧がある……。走っても走っても、どこも火事だ。息が切れて、立止ったとたんに、思いついた。西瓜を割って、中身で喉をうるおして、その皮を頭にかぶって、大河につかった。そして生命を助かったそうだが……。これなんか、恐らく東京中で、一番賢明な奴だったろう。」
「初めは、夢中で抱え出したんだな。とかく、智恵は後から湧くって謎か。」
「後から智恵が湧くどころか、終始一貰、あの時は誰も夢中だった。君なんか、外は歩けなかった組だね。」
言葉を向けられた、背の高い、大陸的な風采の男は、昂然と笑った。
「ばかな、大手を振って出歩いたさ。そして警戒線にぶつかると、アイウエオやいろははおろか、逆に、すせもひゑしみめゆきさあてえ……。どうだ、云えるか。」
「す……せ……も……。ははは、ばかだなあ。」
「あの時だけは、有吉、君たちの軍服も、感謝の光栄に浴したわけだね。」
「なあに、ただ、辻々に立って……街路樹みたいなものさ。」
有吉は事もなく云って、微笑していた。
「街路樹よりも、もっと本物らしいのがあった……。」
先程から、有吉の軍服と旭日章とをぼんやり眺めていた杉本が、ふいに口を開いたのである。皆の視線がその方を向いた。
――九月三日の夜……といえば、戒厳令が布かれた直後のことである。流言浮説は深刻の頂上に達していた。自戒団や避難民で街路は湧き立っている。……が、その間に、まだ電燈のともらない裏通りなどに、変に薄暗い、人気の少い穴みたいなところがある。そんなところが最も危険だ。特に、広い墓地を控えた寺の入口など……。その或る寺の入口に、石の仏像が一つあった。すると、三日の夜、誰かが、気転を利かして、在郷軍人の、軍服の上衣と帽子を、その石の像にかぶせた。そして、軍服をきた石の像が、四日をすぎて、五日の朝まで、そのままつっ立っていた……。畑の中の案山子なんかより、もっと有効に……。