三
身屋の贄殿の二つの隅には松明が燃えていた。一人の膳夫は松明の焔の上で、鹿の骨を焙りながら明日の運命を占っていた。彼の恐怖を浮べた赧い横顔は、立ち昇る煙を見詰めながらだんだんと悦びの色に破れて来た。そのとき、入口の戸が押し開けられて、後に一人の若者を従えた王女卑弥呼が這入って来た。膳夫は振り向くと、火のついた鹿の骨を握ったまま真菰の上に跪拝いた。卑弥呼は後の若者を指差して膳夫にいった。
「彼は路に迷える旅の者。彼に爾は食を与えよ。彼のために爾は臥所を作れ。」
「酒は?」
「与えよ。」
「粟は?」
「与えよ。」
彼女は若者の方を振り向いて彼にいった。
「我は爾を残して行くであろう。爾は爾の欲する物を彼に命じよ。」
卑弥呼は臂に飾った釧の碧玉を松明に輝かせながら、再び戸の外へ出て行った。若者は真菰の下に突き立ったまま、その落ち窪んだ眼を光らせて卑弥呼の去った戸の外を見つめていた。
「旅の者よ。」と、膳夫の声が横でした。
若者は膳夫の顔へ眼を向けた。そうして、彼の指差している下を見た。そこには、海水を湛えた盌の中に海螺と山蛤が浸してあった。
「かの女は何者か。」
「この宮の姫、卑弥呼という。」
膳夫は彼の傍から隣室の方へ下がっていった。やがて、数種の行器が若者の前に運ばれた。その中には、野老と蘿蔔と朱実と粟とがはいっていた。楤の木の心から製した醨の酒は、その傍の酒瓮の中で、薫ばしい香気を立ててまだ波々と揺いでいた。若者は片手で粟を摘むと、「卑弥呼。」と一言呟いた。
そのとき、君長の面前から下がって来た一人の宿禰が、八尋殿を通って贄殿の方へ来た。彼は痼疾の中風症に震える老躯を数人の使部に護られて、若者の傍まで来ると立ち停った。
「爾は何処の者か。」
宿禰の垂れ下った白い眉毛は、若者を見詰めている眼の上で慄えていた。
「我は路に迷える旅の者。」
「爾の額の刺青は玦である。爾は奴国の者であろう。」
「否。」
「爾の顎の刺青は月である。爾は奴国の貴族であろう。」
「否。」
「爾の唇の刺青は蔓である。爾は奴国の王子であろう。」
「否、我は路に迷える旅の者。」
「やめよ。爾の祖父は不弥の王母を掠奪した。爾の父は不弥の霊床に火を放った。彼を殺せ。」
宿禰の茨の根で作った杖は若者の方へ差し向けられた。忽ち、使部たちの剣は輝いた。若者は突っ立ち上ると、掴んだ粟を真先に肉迫する使部の面部へ投げつけた。剣を抜いた。と見る間に、使部の片手は剣を握ったまま胴を放れて酒の中へ落ち込んだ。使部たちは立ち停った。若者は飛び退くと、杉戸を背にして突き立った。彼を目がけて盌が飛んだ。行器が飛んだ。覆った酒瓮から酒が流れた。そうして、海螺や朱実が立ち籠めた酒気の中を杉戸に当って散乱すると、再び数本の剣は一斉に若者の胸を狙って進んで来た。身屋の外では法螺が鳴った。若者は剣を舞わせて使部たちの剣の中へ馳け込んだ。そうして、その背後で痼疾に震えている宿禰の上へ飛びかかると、彼を真菰の上へ押しつけた。使部たちの剣は再び彼に襲って来た。彼は宿禰の胸へその剣の尖をさし向けると彼らにいった。
「我を殺せ、我の剣も動くであろう。」
使部たちは若者を包んだまま動くことが出来なかった。宿禰は若者の膝の下で、なおその老躯を震わせながら彼らにいった。
「我を捨てよ。彼を刺せ。不弥のために奴国の王子を刺し殺せ。」
しかし、使部たちの剣は振り上ったままに下らなかった。法螺はただ一つますます高く月の下を鳴り続けた。銅鑼が鳴った。兵士たちの銅鉾を叩いて馳せ寄る響が、武器庫の方へ押し寄せ、更に贄殿へ向って雪崩れて来た。
「奴国の者が宮に這入った。」
「姫を奪いに。」
「鏡を掠りに。」
騒ぎは人々の口から耳へ、耳から口へと静まった身屋を包んで波紋のように拡った。やがて贄殿の内外は、兵士たちの鉾尖のために明るくなった。
「奴国の者は何処へ行った。」
「奴国の者を外へ出せ。」
贄殿の入口は動乱する兵士たちの肩口で押し破られた。そのとき、彼らの間を分けて、一人卑弥呼が進んで来た。兵士たちは争って彼女の前に道を開いた。彼女は贄殿の中へ這入ると、使部たちの剣に包まれた若者の姿を眼にとめた。
「待て、彼は道に迷いし旅の者。」
「彼は奴国の王子である。」
「彼は我の伴ないし者。」
「彼の祖父は不弥の王母を掠奪した。」
「剣を下げよ。」
「彼の父は不弥の神庫に火を放った。」
卑弥呼は使部たちの剣の下を通って若者の傍に出た。
「我は爾に食を与えた。爾は爾の国へ直ちに帰れ。」
若者は踏み敷いた宿禰を捨てて剣を投げた。そうして、卑弥呼の前に跪拝くと、彼は崩れた角髪の下から眼を光らせて彼女にいった。
「姫よ、我を爾の傍におけ、我は爾の下僕になろう。」
「爾は帰れ。」
「姫よ、我は爾に我の骨を捧げよう。」
「去れ。」
「姫よ。」
「彼を出せ。」
使部たちは剣を下げて若者の腕を握った。そうして、彼を戸外の月の光りの下へ引き出すと、若者は彼らを突き伏せて再び贄殿の中へ馳け込んだ。
「姫よ。」
「去れ。」
「姫よ。」
「去れ。」
「爾は我の命を奪うであろう。」
忽ち、兵士たちの鉾尖は、勾玉の垂れた若者の胸へ向って押し寄せた。若者は鉾尖の映った銀色の眼で卑弥呼を見詰めながら、再び戸外へ退けられた。そうして、彼は数人の兵士に守られつつ、月の光りに静まった萩と紫苑の花壇を通り、紫竹の茂った玉垣の間を白洲へぬけて、磯まで来ると、兵士たちの嘲笑とともに鞺ッと浜藻の上へ投げ出された。一連の波が襲って来た。そうして、彼の頭の上を乗り越えて消えて行くと、彼は漸く半身を起して宮殿の方を見続けた。