出発と船中(與謝野 寛)
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自分は妻を携へて満蒙と北京とへ旅行することになつた。二人とも久しく教壇と書斎との間を往復する生活に固定してゐたので、俄かに籠を放れて羽を伸ばすやうな気持である。
一九一一年に欧洲行の途次に上海を一瞥した以外に自分は支那の地を知らない。妻は浦塩斯徳から汽車でハルビン、満洲里を過ぎて欧洲へ行つた事はあるが、彼女も支那とは殆ど初対面である。
我我は先づ何よりも公務や商用で旅行する境遇でないことの気安さを喜んだ。満鉄本社は我我を招いて、満蒙の晩春初夏を観て歩かせ、気に入つた所で歌を詠めと云ふのである。こんなに愉快な旅行は生涯に幾回もあらうとは想はれない。我我は本社の諸友の厚意を満喫しよう。
出発前に古澤幸吉君はハルビンから、宇佐美寛爾君は大連から、共に旅行についての注意を与へられ、東京の小村欣一、上田恭輔、三樹退三の諸君は紹介状を恵まれ、正宗得三郎、古川達四郎、川西泰一郎、嘉治隆一の諸君は種種の配慮を賜はるのであつた。それから慶応大学の文学部長川合貞一博士は自分の請暇を快諾せられた。
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昭和三年五月五日の夜、家族だけに送られて、そつと出発する積りで東京駅へ来て見ると、意外にも多勢の友人や学生達が見送られた。友人達の中に野口米次郎、正宗得三郎、新居格、赤城泰舒、河崎夏子、有島信子諸君の顔を見た。
翌六日神戸出帆の亜米利加丸には、京都から親戚の小林政治君、大坂から倉田厚子夫人が見送られた。妻の弟の鳳宗七君も堺から来て見送つてくれた。
船中には、文部省の督学官野村禮讓君、東京帝国大学の俵國一、澁澤元治両博士、京都帝国大学の学生監花田大五郎学士と乗合せた。花田君は歌人として我我夫婦の旧知である。他の三君は生面であるが、野村君は話してみると、自分と同じく西本願寺派の僧院に人となられて、君の旧交にまた自分の旧交が少なくないのを知つた。澁澤博士はまた大学に於て妻の兄に師事せられた人であつた。七日の朝門司に著いて、ここから東北帝国大学の学長小川正孝博士と福岡帝国大学の西川博士とが乗られた。是等の諸君は共に旅順にある工科大学の開校式に赴かれるのである。
門司に碇泊中、三池から白仁秋津君が見送に来てくれた。我我は正午に船の出るまで白仁君とサロンの一隅にあつて歌を詠んだ。
神戸より大連まで四日間の海上は、幸に好晴で、駘蕩たる和風の中に浪も立たず、どこまでも瀬戸内海の続きのやうであつた。殊に毎夜の月明がよかつた。同船の諸君に銅臭が無く、平生蠹魚の生活を送つてゐる我我も、諸君と食後の卓を囲む会話を喜んだ。それに感謝すべきことは、船長遠藤友吉、機関長鈴木豐馬、事務長吉田信夫諸君、その他船員達の接客法が一層誰れにも快適の感を与へたことであつた。