大連雑記(同上)
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九日の朝、その名にふさはしい巨躯と温容とを持つ大和尚山を右舷に遠望しながら、大連の埠頭に著いた。満鉄本社から船内まで出迎へられたのは意外にも旧友の西田猪之輔君であつた。西田君は十四五年の前、その逓信省在官時代に、我我の詩社に在つて、屡夜を徹してまで共に歌を詠む仲間の一人であつた。君が久しく満洲に居られるとは知らなかつたのである。埠頭には宇佐美君夫婦、画家の眞山孝治其他の諸君が出迎へられた。中にまた意外にも二十年来の旧友である渡邊三角洲君の顔があつた。渡邊君も歌を詠む人である。実を云ふと、出迎へて下さつた人達は、宇佐美君夫婦の如く書信の交際はあつても、総べて生面の挨拶を述ぶべき人達ばかりである。出発前から妻は窃かに此事を心細く感じてゐたのであつたが、計らずも西田渡邊二君の旧識に逢つて、彼女はほつと安心する様子であつた。
桟橋と埠頭の壮観、それは日露戦争以後たびたび聞かされてゐたやうでもあつた。またさうでないやうな物足りなさも感ぜられた。埠頭から眞山君に案内されて大和ホテルに著くまでの自動車から眺めた大連市街の欧洲風の外観も、整頓はしてゐるが、かさかさとして硬い感がした。上海だけの寂びと潤ひとが無いのは歳月を経ない新市街のためであらうか。「大連へ行くと欧羅巴へ行つた気がする」とは、欧羅巴へ行つた経験の無い人のよく云ふ言葉だと想はれる。その比較には欧羅巴が顰蹙するであらう。ホテルの前の広場を中心にして放射形に伸びた市街は、流石に後藤伯の総裁時代に出来た大規模の設計として感歎に値する。若し是れが欧洲であつたら、どこと無く芸術的な匂ひが漂はずには居ないであらう。噂に聞いて期待してゐただけ、広場の装飾の貧弱さよ。石の彫像一つ見当らないのはどう云ふものかと、自分は先づ眞山君に一問を呈するのであつた。併し我我は大連へ著いて顔も洗はない先に、もう既に不満を感じてゐるのではない。反対に埠頭からホテルまでの大連の第一印象は、何となくゆつたりとして心の落ちつくのを感じた。これは東京、いや日本内地の生活全体が余りにせせこましく繁劇で且つ窮屈なのに対照して、満鉄王国の首都にある人人の実生活が経済的に――引いて精神的に裕福なためで無からうか。それとも大陸の自然の曠漠たる所が在留邦人の気象に反映してゐるためであらうか。恐らくは両者の綜合された関係からであらう。
今日から数日間に亘つて、眞山君が大連と旅順との見物に案内役をして下さることに本社で決まつてゐた。眞山君は生面であるが、君の性情はかねて有島正宗の両画家から聞いて熟知してゐる。画家を東道の主人とする気の利いたことは多分宇佐美君あたりの配慮であらう。勿論、眞山君には迷惑なことであるが、我我はよい案内役を得たことを喜び且つ感謝した。
午後眞山君を煩はして、本社の諸君へ夫婦で挨拶に赴いた。我我は友人の私宅を訪ふことは好きだが、官公衙や大会社の廊下と階上とを昇り降りして執務中の人を訪問することは、その打解け難い寒い気持が嫌ひである。鉄道部長としての宇佐美君、文書課長としての木村通君、某課長としての石川鐵雄君、其他一二の諸君をその各室に歴訪し、此度の厚意を謝して匇匇として辞した。曽て巴里に居た時、或人に案内されて、レザンナル誌の主筆やタン紙の主筆を訪問した時、日本服の妻を珍しがつて、どの社でも写真を撮られたりしたのが、南洋の土人でも見世物にされるやうで不愉快であつたが、今度は久し振に異境へ来て、こんな不慣れな社交の真似をして歩くのも、旅中の風情として面白く感ぜられた。
アメリカ丸の甲板にて(向つて左より花田君・寛・晶子)
大連市外の星ヶ浦
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支那へ行くと各地に「小盗児市場」と云ふ露店の街区のある事を聞いて居たが、今日(五月九日)の午後、眞山君は予等を大連の其れへ同行してくれた。市の西の小崗子と云ふ丘陵地にある支那街の一部に、白く立つ砂ぼこりと悪臭とを我慢しながら、自動車を表通に待たせて置いて、縦横に通じた小盗児市場の小路を歩き廻つた。
西側に櫛比した矮い店舗が、どれも粗末な古著や古道具を並べてゐる。露店よりも店舗の方が多い。東京の場末にもかう云ふ古道具屋が古靴や空瓶や古金類を並べてゐるが、こんなに同じやうな店が街区を成してゐるのは支那以外に見られない光景であらう。店の品は高価であるべき織物や宝石類をも見受けるが、多くは売物になり相でない廃物である。眞山君の説明に由ると、掃溜から拾つて来た物もあれば、諸方から盗んで来た物もあつて、百円の金時計も気長に値切れば拾円にも負ける相である。日本人が支那人に物を盗まれると、一箇月以内に此の市場を探せば大抵発見するから、其れを買ひ戻す場合があると云ふことだ。併し盗品ばかりとは限らないであらう。やはり投げ売物の交つてゐる事は日本の低級な古道具屋や古著商と同じであらう。予は曽て名を聞いて、盗んだ盗坊の仲間が露店を出してゐるのかと速断し、好奇心から一見したかつたのであるが、今日見ると何れも穢くはあるが、主人もあり店員もゐる古道具商の街区であつた。これを「小盗児市場」と呼ぶのは日支両国語の混合であるから、恐らく日本人の附した賎称で、市人の店前で斯く呼んだら彼等の怒を買ふであらう。予は眞山君に名称の由来を問ふことを忘れた。
この市場の中には諸種の飲食店が混在し、苦力階級の顧客が群を成してゐる。予等は屡立止まつて、店晒しの食物の配色に一種見慣れざる異民族の美を感じたが、蒜類の臭気には絶えず手巾を以て鼻を掩はざるを得なかつた。或る店頭の大鍋で径一尺余に薄く円形をして伸ばされた麺子の皮が、調理人の手で巧みに翻転して焼かれるのを覗き込むと、調理人の五十面が得意の笑を満たしながら、日本語で「ウマイよ」と云ひつつ、予等に円盤形の麺子の皮を持ち上げて示した様子は、甚だ親むべき好感的のものであつた。
最後に表通へ出ようとして支那の公娼窟を横ぎつた。路傍に娼婦の共同浴場があつた。勿論関東州の日本警察署が管轄する土地であるから、純粋の支那街の公娼窟ではない。
それから眞山君は予等を老虎灘の景勝へ導かれたが、薄暮の海から吹く風が荒く且つ寒くて崖下の佇立をも徘徊をも許さなかつた。予等は小松を移植した崖上の坂道を殆ど匍匐して登り、一茶亭に入つたが、別に客無くして索寞たるものであつた。想ふに大連に来つて老虎灘を訪ふのは夏日の晩涼、秋宵の月明を好しとするのであらう。
今夜ホテルへ多くの人の来訪を受けた。西田猪之輔、渡邊三角洲両君とは別後と疇昔とに亘つて頻に語つた。中日文化協会の機関誌「満蒙」の主筆中溝新一君は生面の文人である。予等は君に由つて満蒙の知見を深め得んことの期待を持つのであつた。三星洋行の主人高井覺太郎君は生面ながら、予等の長男の新婦の姻戚である。詳しく云へば君の夫人は新婦の伯母である。諸君と歓語する予等は、さながら旅中に在るを忘れたる如くに落著くのであつた。
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翌十日は西田君に伴はれて、午前に埠頭の福昌華工株式会社を訪うた。会社は支那の労働者を満鉄へ一手に供給する事を営業とし、間接に満鉄の経営する所である。「苦力」の称を避けて「中華の職工」の意味で「華工」と云ふ新語を造つたのは経営者の用意の存する所であらう。予等は其の華工の寄宿舎を見せて貰ふのが往訪の目的であつた。
会社の建築物は九十余棟の寄宿舎が主たるもので、其れを「碧山荘」と云ふ雅名で総称してゐる。庶務課主任の平野琢磨君が鄭寧に予等を案内せられた。煉瓦家屋の舎内は中央に道路があり、その左右が二尺足らずの高さの炕(温突)になつて居て、其上に高粱の稈で造つた莚――謂ゆる「アンペラ」が敷かれ、片方に十人づつの華工の寝床が並んでゐる。白昼であるから各の蒲団が円めて枕と共に後方の壁に寄せられてゐる。二階へは上つて見なかつたが、階下と同様に整然たるものであらう。華工は労働に出て殆ど居なかつた。どの寄宿も左右に入口があつて、一方の入口は会計所、一方の入口は炊事所になつてゐる。会計所の壁に掛けた華工の名の木札を見ると、支那名が皆堂堂として感ぜられる。中に「王」と云ふ姓の多いのが目に附く。何れかの朝の帝王の子孫なのであらうと気の毒な気がしないでもない。炊事所の竃の上には、五六重の大きな円い蒸籠から、ふつふつと白い湯気を噴いて、昼食の支那麺包が蒸されてゐるのであつた。
右は独身者の宿舎であるが、此外に夫婦者の小さな宿舎が幾棟かに分れ、一世帯が一棟を占めてゐる。細君達は炊事や洗濯をして居た。どの宿舎も日本人の監督の下に概して清潔である。別に療養所や浴場の設備もある。平野君の話では、此の寝舎に慣れると、華工は余所へ行きたがらない。支那の下層民が不潔に甘んじるのは決して天性では無いとの事である。
会社は現に一万以上の華工を収容してゐる。華工の出身地は概ね山東省に限られてゐると云つてよい。其等の華工は約二百人の「華工頭」と称する親方の支那人に分属してゐる。その華工頭の勢力に由つて部下の華工数に差があり、多き者は一人にて百三十人を支配し、その賃銀の一部を収めてゐる。華工頭の助手としては「二頭」が居り、会計役としては「先生」と呼ばれる者がゐる。また「先生」に属して炊事役の「大師父」と「二師夫」とがゐる。「華工頭」の称も会社の命名であつて、他では一般に苦力の親方を「把頭」と呼ぶ相である。
華工の賃銀は一日四十銭より五十銭止まりである。其内から華工頭に食料と分頭税と差引かれても、一箇月に四五円を貯金し得ると云ふ事である。社外の苦力の労銀は大抵一日四十銭であるが、彼等の一日の食費は十銭内外で足ると云ふ事である。
平野君は更に予等を後方の山腹に引いて、華工の信仰の為めに会社で建てた道教の廟を見せられた。先づ廟前の牌障の上に立つて、港内の展望を晴空の下に縦ままにしたのは快心の事であつた。廟には道士を招いて住ませてある。予等は茲に初めて道教の廟と道士と、其れの誦する経巻とを目にした。道士は予等の為めに祭典の日に用ひる華文紅錦の道服を著けて顧眄の態を為して見せた。それを珍しがる予等と彼れと何れが田舎者であるか分からなかつた。