次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。
白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の徳川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。
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城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑いてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中日延」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會御執行相成候てより日限も不相立儀に付、太郎兵衞事、死罪御赦免被仰出、大阪北、南組、天滿の三口御構の上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。
(大正四年十月「中央公論」第三十年第十一號)