二の二
「君、さう泣くな、村井」とポンと肩を叩いて宥めたるは、同じく苦学の配達人、年は村井と云へるに一ツ二ツも兄ならんか、「述懐は一種の慰藉なりサ、人誰か愚痴なからんやダ、君とても口にこそ雄いことを吐くが、雄いことを吐くだけ腹の底には不平が、渦を捲いて居るんだらう」
少年村井も首肯きつ、「ウム、羽山、まあ、さうだ」
「それ見イ、僕は是れで三年配達を遣つてるが、肩は曲がる、血色は減くなる、記憶力は衰へる、僕はツクヅク夜業の不衛生――と云ふよりも寧ろ一個の罪悪であることを思ふよ、天は万物に安眠の牀を与へんが為めに夜テフ天鵞絨の幔幕を下ろし給ふぢやないか、然るに其時間に労働する、即ち天意を犯すのだらう、看給へ、夜中の労働――売淫、窃盗、賭博、巡査――巡査も剣を握つて厳めしく立つては居るが、流石に心は眠つて居るよ、其間を肩に重き包を引ツ掛けて駆け歩くのが、アヽ実に我等新聞配達人様だ、オイ村井君、君の崇拝する篠田先生も紡績女工の夜業などには、大分八ヶ間敷鋭鋒を向けられるが、新聞配達の夜業はドウしたもんだイ、他の目に在る塵を算へて己の目に在る梁木を御存ないのか、矢ツ張り、耶蘇教徒婦人ばかりを博愛しツてなわけか、ハヽヽヽヽヽ」
「是りや羽山さん、出来ました」「村井さん如何です」「ハヽヽヽヽヽ」
隣れる室の閾に近く此方に背を見せて、地方行の新聞に帯封施しつゝある鵜川と言へる老人、ヤヲら振り返りつ「アハヽ村井さん、大分痛手を負ひましたナ、が、御安心なさい、此頃も午餐の卓で、主筆さんが社長さんと其の話して居られましたよ」
「ドウだ羽山、恐れ入つたらう」と村井は雲を破れる朝日の如く笑ましげに、例の鋭き眼を輝やかしつ「僕は僕の配達区域に麻布本村町の含まれてることを感謝するよ、僕だツて雨の夜、雪の夜、霙降る風の夜などは疳癪も起るサ、華族だの富豪だのツて愚妄奸悪の輩が、塀を高くし門を固めて暖き夢に耽つて居るのを見ては、暗黒の空を睨で皇天の不公平――ぢやない其の卑劣を痛罵したくなるンだ、特に近来仙台阪の中腹に三菱の奴が、婿の松方何とか云ふ奴の為に煉瓦の建築を創たのだ、僕は其前を通る毎に、オヽ国民の膏血を私せる赤き煉瓦の家よ、汝が其礎の一つだに遺らざる時の来ることを思へよと言つて呪てやるンだ、けれどネ羽山、それを上つて今度は薬園阪の方へ下つて行く時に、僕の悩める暗き心は忽ち天来の光明に接するのだ」
羽山は笑ひつゝ喙を容れぬ「金貨の一つも拾つたと云ふのか」
「馬鹿言へ、古き槻が巨人の腕を張つた様に茂つてる陰に『篠田』と書いた瓦斯燈が一道の光を放つてるヂヤないか、アヽ此の戸締もせぬ自由なる家の裡に、彼の燃ゆるが如き憂国愛民の情熱を抱て先生が、暫ばしの夢に息んで居られるかと思へば、君、其の細きランプの光が僕の胸中の悪念を一字々々に読み揚げる様に畏れるのだ」
「一寸お待ちなせエ、戸締の無い家たア随分不用心なものだ、何れ程貧乏なのか知らねいが」と彼の剽軽なる都々逸の名人は冷罵す、
「君等に大人の心が了つてたまるものか」と村井は赫と一睨せり「泥棒の用心するのは、必竟自分に泥棒根性があるからだ、世に悪人なるものなしと云ふのが先生の宗教だ、家屋の目的は雨露を凌ぐので、人を拒ぐのでないと云ふのが先生の哲学だ、戸締なき家と云ふことが、先生の共産主義の立派な証拠ぢやないか」
「キヨウサンシユギつて云ふのは一体何のことかネ」と剽軽男は問ふ、
村井は五月蝿と云ひげに眉を顰めしが「そりや、其のあれだ、手短に言へば皆ンなで働いて皆ンなで用ふのだ、誰の物、彼の物なんて、そんな差別は立てないのだ――」
「ヘエー其奴ア便利だ、電車の三銭どころの話ヂヤねいや」
頭を台湾坊主に食はれたる他の学生、帽子を以て腰掛を叩きつゝ「だが、我輩は常に篠田さんが何故無妻なのかを疑ふよ」
突然異様の新議案に羽山は真面目に首を傾けつ「何でも先生、亜米利加で苦学して居た時に、雇主の令嬢に失恋したとか云ふことだ、先生の議論の極端過ぎるのも其の結果ヂヤ無いか知ラ」村井は首打ち振りつ、「僕は必ず社会革新の為に、一身の歓楽を犠牲にせられたのだと思ふ」
時に例の剽軽男、ニユーと首を延して声を低めつ「嬶も矢ツ張り共産主義ツた様な一件ヂヤ無いかナ」
一座思はずワアツとばかりに腹を抱へぬ、鵜川老人は秘蔵の入歯を吹き飛ばせり、折から矢部と云ふ発送係の男、頓驚なる声を振り立てて、新聞出来を報ぜしにぞ「其れツ」と一同先きを争うて走せ出だせり、村井のみ悠々として最後に室を出て行けり、