文「まア宜しい、黙っていろ、姉さん爰に四十金あるからこれをお前に上げましょう、其の代りお百度に出る事はお止め申すよ」
娘「はい、どう致しまして、見ず知らずの方に四十金と云う大金を戴く事は出来ません」
亭「折角だから戴いて行きな、これは業平橋にお住居なさる文治様と云う旦那だよ」
娘「有り難うございますが、親父が物堅うございますから、仮令手拭一筋でも人様から謂れなく物を戴いて参ると直に持って往って返えせと申しますくらいでございますから、金子などを持って往けば立腹致して私を手打にすると申すかも知れません、戴きたい事は山々でございますが、私が持って帰っては迚も受けませんから、お慈悲序でに恐れ入りますが、貴方が持って往って直に親父にお渡し下されば親子の者が助かります、眼さえ治れば直にお返し申しますから何卒そう為すって下さいまし」
文「はい/\これはお前さんに遣るのは悪るかった」
森「これは真物ですなア、贋物なら直に持って往くのだが、こりゃア真物だ」
文「姉さんお前は何処だえ」
娘「はい、松倉町二丁目でございます」
文「それは聞いたがお前の家は松倉町の何の辺だえ」
娘「はい、葛西屋と云う蝋燭屋の裏でございます」
森「フム、けちな蝋燭屋だ」
文「お父さんは何をしておいでだえ」
娘「筆耕書でございます」
森「なんだとシッポコかきだとえ」
文「なアに版下を書くんだ、お父さんの御尊名は何と仰しゃいますえ」
娘「はい小野庄左衞門と申します」
文「何処の御藩中ですか」
娘「中川山城守の藩中でございます」
文「士気質ではうっかりお受取なさいますまいから、明日私が持って往って上げましょう、気を付けてお帰んなさいよ」
娘「有難うございます、左様なら」
文「此処にお茶受に出たお菓子があるから持っておいで、あれさ、食物は宜しい」
と紙へ沢山包んで、
文「さアお持ちなさい」
と出された時は孝行な娘だから親に旨い物を食べさせたいが、窮して居りますから何一つ買って食べさせられないから、
娘「有難うございます」
と云って手に取って貰う時に、始めて文治の顔を見ますと、美男の聞えある業平文治でござります、殊に見ず知らずの者に四十金恵んで下さるとは何たる慈悲深い人だろうと、我を忘れて惚れ/″\と見惚て居りまして、思わず知らず菓子の包みをバタリッと下に落しました。
森「姐さん落しちゃアいけねえぜ、折角お呉れなすッたのだから」
娘「はい」
と云って羞かしいから真赤になって立上るを、
文「姉さん、帰るんならどうせ通道だから送って上げよう、大きに御厄介になりました、明日来て奉公人や何かへ詫をしましょう」
亭「どう致しまして、明日またお母様へお肴を上げますから」
文、森「左様なら」
と娘と連れ立って松倉町の角まで来ました。
娘「有難うございます」
文「それでは明日往きますよ」
娘「有り難うございます/\」
と云って幾度も跡を振り返って見ますのは、礼が云いたいばかりではない、文治の顔が見たいからでございます。
娘「有り難うございます/\」
と云いながら曲り角などはグル/\廻りながら礼を云いますから、
森「旦那美い女ですなア」
文「貴様は女の美いのばかり賞めているが、顔色容貌ばかりではない、親に孝行をすると云う心掛が善いなア」
森「そうですなア、心がけがいゝねえ」
文「どうも屋敷育ちは違うなア」
森「屋敷育ちは違いますなア」
文「金も受けない所がえらい」
森「金を受けないところがえらい」
文「感心だ」
森「感心だ」
文「同じ事ばかり云うな」
と話をしながら橋を渡って来ると、向うから前橋竪町の商人が江戸へ商用で出て来て、其の晩亀戸の巴屋で友達と一緒に一杯飲んで、折を下げていたが酔っているから振り落して仕舞って、九五縄ばかり提げ、相合傘で踉けながら雪道の踏堅めた所ばかり歩いて来ますが、ヒョロリ/\として彼方へ寄ったり此方へ寄ったり、ちょうど橋詰まで来ると、此方から参ったのは剣術遣いのお弟子と見えて奴蛇の目の傘をさして来ましたが、其の頃町人と見ると苛い目に合わせます者で、
士「さア除け/\素町人除け」
と云うから見ると士だから慌てゝ除けようと思うと、除ける機にヒョロ/\と顛ります途端に、下駄の歯で雪と泥を蹴上げますと、前の剣術遣いの襟の中へ雪の塊が飛込みましたから、
士「あゝ冷たい、なんたる奴だ、あゝ冷たい/\、これ町人倒れたぎりで詫を致さんな、無礼至極な奴だ、何と心得る、返答致せ」
と云われ漸く頭を挙げて向うを見てもドロンケンだから分りません。
商「誠に大変酔いまして、エー何とも重々恐れ入りやした、田舎者で始めて江戸へ参りやして、亀井戸へ参詣して巴屋で一杯傾けやした処が、料理が佳いので飲過ぎて大酩酊を致し、足元の定らぬ処から無礼を致しやして申し訳がありやせん、どうか御勘弁を願いやす」
士「なんだ言訳に事を欠いて巴屋でやり過ぎたとはなんだ」
商「些とやり過ぎやした、どうも巴屋はなか/\旨く食わせやすなア」
士「言訳をするのに巴屋はなか/\旨く食わせるなどとは不埓な申分、やい其処に転がっているのは供か連れかなんだ」
商「ヒエイ」
と頭は上げましたが舌が少しも廻りません。
商「エーイ主人がね此方へ除えようとすう、て前も此方へ除けようとする時に転がりまして、主人の頭と私の頭と打かりました処が、石頭で痛かった事、アハア冷てえや」
士「こんな奴は性のつくように打切った方が宜しい、雪へ紅葉を散してやりましょう」
士「それが宜しい、遣って仕舞いましょう」
と云う声を聞いて両人とも真青になって、雪の中へ頭を摺り付け、
商「何卒御勘弁なすって下さいまし/\」
士「勘弁はならん、切って仕舞う」
と云うのを文治が塀のところで見て居りましたが、
文「森松悪い奴だのう」
森「何です、雪の中へ紅葉とは何の事です」
文「彼の二人を切ると云うから己が鳥渡詫びてやろう」
森「お止しなさい/\」
文「どうも見れば捨置く訳にはいかんから」
と織色の頭巾を猶お深く被って目ばかり出して士の中へ入り、
文「えー御両所、此の者どもは二人共酔って居りますから、どうか免してやって下さい、そんなに人を無闇に切るものでは有りません」
士「貴公はなんだ、捨ておけ、武士に向って不礼至極、手打に致すは当然だわ、それとも貴公は此の町人の連か」
文「いゝえ通り掛りの者ですが、此の者どもを切るのは人参や大根を切るより易いではござらぬか、夜中帯刀して此の市中を歩いて、無闇に刀を抜いて人を切るなどと云う事を仰しゃれば、先生のお名前にも係りましょうから、サッサとお宅へお帰んなさい」
士「無礼至極、不届至極な事を云う奴だ」
文「何が不届です、斯様な弱い奴を切るのは犬を切るのも同じ事でござる、士と云う者は弱い者を助けるのが真の武士、お前さん方は犬でも切って歩きそうな顔付だ」
士「最前から聞いて居れば手前は余程付け上って居るな、此の町人は謂れなく切るのではない、余り無礼だに依って向後の戒の為切捨るのだ、然るに手前は仲人のくせに頭巾を被って居るとは失礼な奴だ、頭巾を取れ」
文「お前さんが頭巾を取って宜しかろう、仲人が来らば先ず其方から頭巾を取って斯様々々な訳で有るからと話をすれば、仲人も頭巾を取るが、喧嘩の当人の方で被っているから仲人の方でも被っているのは当然だ」
士「不届至極な奴だ、素町人を切るより此奴を切ろう」
士「それが宜しい」
文「これは面白い、私を代りに切って此の両人を助けて呉れゝば切られましょう、さア/\田舎のお方、早く行きなさい/\」
と云うと生酔も酔が覚め、腰が抜けて迯げる事が出来ませんで、這いながら板塀の側に慄えておりますと、剣術遣いはジリ/\ッと詰寄って参ったから、文治は油断をしませんでプツリッと長脇差の鯉口を切って、
文「さア代りに切られますが、今の両人と違って切るのは些とお骨が折れましょう、手が二本足が二本あって動きますから気を付けて切らんと貴方の方の首が落ちましょう」
士「やア此奴悪々しい奴だ、此方で切ろうとも云わないに切られようとする馬鹿な奴だなア」
文「さア切れる腕があるなら切って見ろ」
士「さア切るぞ」
と彼の士が大刀の〓へ手を掛けて詰め寄りますから、文治は半身下って身構えを致しましたが、一寸一と息吐きまして直に後を申し上げます。
三
浪島文治が本所業平橋に居りましたゆえに人綽名して業平文治と申しましたとも云い、又男が好いから業平文治と申したとも仰しゃる方があります。尤も業平朝臣と云うお方は美男と見えまして、男の好いのは業平のようだといい女で器量の好いのを小町のようだと申しますが、業平朝臣は東国へお下りあって、暫く本所業平村に居りまして、業平橋の名もそれゆえに起りましたそうでございますが、都へお帰りの時船が覆って溺死されましたにより、里人愍れと思って業平村に塚を建てゝ祭りました、それゆえに前には船の形を致しました石塚でありましたそうで、其の頃は毎月廿五日は御縁日で大分賑いました由にございます。其の天神前で文治は計らずも助けました娘は、親父が眼病ゆえ毎夜親の寝付くを待って家を抜け出して来て、天神様へ心願を掛けましたと云う事を聞いて、文治が不憫と思って四十両の金を遣りましたけれども、娘は堅いからとんと受けませんで、親父に手渡しにしてくれと云うから、文治も感心し、介抱して松倉町の角まで送って来ると、前申しました剣術遣いの内弟子でございましょう、荒々しい士が無法にも商人を斬ろうとする所ですから、文治が中へ入って和らかに詫をすると、付けあがり、容赦はしない、打ち斬って仕舞うと云いながら長柄へ手を掛けたから、文治もプツリッと親指で鯉口を切り、一方の手には蛇の目の傘を持ち、高足駄を穿いた儘両人の中へ割込むと、