「もうこのまま夜になるまでじっとしていたいような気がしますわ。」と英子が云う。
「ええそしていつまでも……。」
ややあって英子は眼を遠くに外らせたまま斯んなことを云った。
「初めて逢った時からすぐに愛を感じる時と、そうでなしに後でだんだん感じてくる時と、あるそうですわね。」
「そうかも知れません。然し後に本当の愛を感ずるような時でも、初めに屹度ある予感はあるものでしょう。」
「で私達は?……」と英子は囁いた。
「御自分の心にきいてごらんなさい。」
そして私はそっと彼女の方をふり返ると、彼女は強く私の手を握りしめた。
暫くして英子はほっと大きく息をしながら、私の眼を覗き込んだ。
「なぜ私達はもっと早く愛しなかったのでしょう?」
私は何とも答えることが出来なかった。
英子の眼のうちには熱く燃えている閃きがあった。そして彼女の手の脈のうちに、また彼女の熱い 〔le`vres〕 の底に、私は恐ろしい passion の擾乱に触れることが出来たのである。
それは恐ろしい誘惑であった。そしてその誘惑は私の肉体をも侵してくる。然しながらああ私は、それを却ける意志の力をも持っていた。その時の私の心は、卑怯でもなかった、またピューリタンのそれでもなかった。それでは何の故か? 私はそれを云う術を知らない。私は単なる relation sexuelle を軽視していたけれども、愛の名に於てまた運命の名に於て為さるるそれを非常に重大視していたのである。然し私はその時、それをはっきり意識に浮べてはいなかった。私は震えながら立ち上った。そして云った。
「少し歩きましょうか。」
英子は黙って私を見上げた。その眼付の中に私はある敵意を読み取ることが出来た。然し乍ら次の瞬間に私はもっと恐ろしいことを考えていた――彼女のうちには 〔be^te sauvage〕 が居ると。
私の心は乱れていたけれども、頭は妙に冷たく澄み切っていた。英子の passion に糧を与えてやるのが至当であろうか。またそれが私達の愛の保証であろうか。私達の愛はそれを肯定し得るまで進んでいるであろうか。……私はその時心の中で、信念! と叫んだ。すると眼に涙が湧いて来た。
私はそっと英子の手を執った。そして云った。
「ね、信じて下さい。」
英子はただ黙って頭を下げた。
佗びしい夕日の影が地に落ちていた。私達は道に迷った者のように、当度もなく黙々として田圃中に歩み入った。うち続いた桑畑の間から冷たい空気が流れてくる。
何とはなしに再び吉祥寺に帰って来た時、私は頭も身体もぐったり疲れていた。英子は洋傘を片手につきながら緊張した顔を俯向けていた。
英子の家に帰ってきた時、私はどうしていいか分らなかった。でそのまま彼女の後について家の中に入っていった。
「何処に行っていました?」と英子の母の春子さんはすぐに声をかけた。
「上野の展覧会に行ったの。」と英子は答えた。「そう、それはよかったね。」そして春子さんは私の方へ笑顔を向けた。「いい絵がございましたか。私もまだつい行けないでいますんですが。」
「面白いのは少ないようです。」と私も嘘を云ってしまった。「然し去年よりはいいものがあるようです。」
「皆さんがそう被言るようですね。大変な人でございましょう。」
「ええ。すっかり疲れてしまいました。」
春子さんは私達に菓子を出してくれたり、お茶を汲んでくれたりした。
「お母さん此度は橋本さんを誘ってまた一緒に行きましょうよ。」と英子が云った。
「だってお前さんはもう見たんではありませんか。」。
「それはも一度位見たいわ。」
「ほんとに呆れた人だね。」
それから彼女は種々な世間話をしたが、私はただいい加減に受答をしてなるべく話を英子の方へ外らしてしまった。
「お気分でもお悪いのですか。」と春子さんは眉を寄せて私の方を見た。
「いえ、別にそうでもありません。」
私は間もなく、飯を辞退して其処を出た。二人に玄関まで送って来られた時、私はちらと英子の顔を竊み見たきり、母親の顔を仰ぎ見るようにして、頭を下げた。
その晩私は長い間街路を歩き廻った。なるべく淋しい裏通りを選んで歩いた。そして自然に私は首垂れて英子のことを思い耽っていた。彼女の冷たい半面と熱情の半面とが私の頭を乱した。然し私は時々星の輝く空を仰いでは、「信ずる」と強く自分の心に囁いた。何を信ずるか自分にもはっきり分らなかった。もうそれは単なる英子への愛のみではなかった。私は強い寂寥に襲われながら、緊と手を握りしめていた。
夜私は英子に長い手紙を書いた。その中に私は、二人の愛を信じてくれるように、彼女自身の心をじっと見守っていてくれるように、力強くあるように、それからまた私の心は愛に依って生きていることや、生活を愛の上に築くことの貴さや、そんなことを認めた。そしてその書信を翌日に投函することにして机の上に置いた。
冷たい床に這入って手足を伸すと、淋しく興奮した頭が次第に柔いだ。そしてその時私は泣きたいような気持ちになりながら、英子の Corps nu を眼の前に浮べていた。