ところが、今彼の心は、最初は全然予想しなかった、極度の混乱に陥って了ったのだ。仮令、仮想の人物にもせよ、細君が彼以外の男を愛し始めたという、この恐しい事実が彼を撃った。始めは狂言であった嫉妬が、真剣なものに変って来た。若しこういう心持が嫉妬といえるならばだ。そこには相手がないのだ。一体全体、誰に向って嫉妬をするのだ。細君は決してT以外の男に肌身を許した訳ではない。つまり、彼の恋敵は、とりも直さず彼自身に外ならぬのだ。
さあ、そうなると、以前はさ程でもなかった細君が、この世に二人とないものに思われて来る。その細君を、他人に(正しく云えば自分自身にだが)奪われたかと思うと、くやしさは一通りではない。細君がぼんやり物思いに耽っている。アア、彼女は今、もう一人の男のことを思っているのだな。そう考えると、もうたまらない。Tは実に取返しのつかぬことをやって了ったのだ。彼は自分自身の仕掛けた罠にかかったのだ。
慌てて、仮装を中止して見たところで、今更ら何の甲斐もなかった。夫婦の間には、いつの間にか妙な隔意を生じていた。細君はともすれば憂欝になった。恐らく彼女は姿を見せぬ男のことを、諦め兼ねているのに相違ない。Tはそれを見るのがつらかった。と同時に、それ程心にかけている男というのが、実はもう一人の自分であることを考えると、それは満更嬉しくないこともなかった。
一層一伍一什を打開けて了おうか、だがそうすることは、何となくいやだった。一つは余りに馬鹿馬鹿しい自分の行為が恥しくもあったし、それに、もう一つは、実はこれが最大の原因なのだが、生れて始めて経験した、忍ぶ恋路の身も世もあらぬ楽しさを、Tはどうにも忘れ兼ねた。彼は、そこに、本当の恋を見出した様に思った。本来のTに対しては、世間並の女房に過ぎなかった彼女が、その心の奥底にあの様な情熱を隠していようとは。Tは全く意外であった。そして逢瀬が重なれば重なる程、そのことは明かになって行った。今更ら、あれは狂言だったなどとどうして云えるものか。
併し、この二重生活をいつまでも続けることは、煩わしいばかりでなく、細君に真相を悟られる虞があった。これまでは、いつも夜更けを選んで、暗い電燈の下や、多くはその電燈さえもない闇の中で逢っていたのだし、一方明白なアリバイが用意してあったから、まず安全であったけれど、そんな異常な会合がそうそう続けられるものではない。とするとそこには三つの方法しかない。第一は仮想の人物を葬って了うこと、第二はトリックの一伍一什を打明けること、そして第三は、実に変なことだけれど、彼が、細君に愛想をつかされた、いわばこの世に用のないTという人物を辞職して、その代りに一方の仮想の男になり切って了うこと。
今も云う通り、仮想の人物としての、細君との、謂わば初恋を発見した彼は、どうにも、第一第二の道を選ぶ気にはなれなかった。そこで非常に難しいことだとは思ったが、遂に、第三の方法を採ることに決心した。つまり、Aという男が、ABの二役を勤め、それから今度は、始めのAをすてて、まるで違ったBの方にばけて了うのだ。嘗てこの世に存在しなかった一人の人間を拵えるのだ。
そう決心すると、Tはまず旅行と称して、一ヶ月ばかり家をあけ、その間に、出来る丈け顔形を変えようとした。頭髪の刈り方を違え、口髭を生し、眼鏡をかけ、医者の手術を受けて、一重眼瞼を二重にし、その上顔面の一部に、小さい傷さえ拵えた。そして、髭が伸びた頃に、態々九州の方まで出掛けて行って、そこから、細君の所へ一通の絶縁状を送ったものだ。
細君は途方に暮れた。相談を持込む親戚とてもないのだ。幸い、夫が多額の金を残して行ったので、その方の不自由は感じなかったが、そうかといって、じっとして居る訳には行かぬ。こんな時、あの方が来て下すったら。きっと彼女はそう思ったに相違ない。丁度そこへ、仮想の男になり済したTが、ヒョッコリとやって来た、最初は、細君、その男をTだといって聞かなんだが、Tの友人が訪ねて来ても、まるで話が合わなかったり、(それはTが予め頼んだこの芝居の脇役なのだ)仮装の男の身許が明かになったりしたので(これもTが拵えて置いたのだ)つい、彼等が全く別人であることを信ずる様になった。これが、何かそうする理由でもあったのなら、いくら何でもだまされはしないのだろうが、T自身の心持を外にしては、まるで理由というものがないのだ。まさか、こんな馬鹿馬鹿しいお芝居が演じられようとは、誰にしたって、思いも寄らないからね。Tの細君は案外易々とだまされたのも、これは無理もないよ。
間もなく、彼等は住所を換えて同棲することになった。無論名前もTではなくなった。お蔭で、僕等Tの友人は、かたくお出入りをさし止められたものだ。聞くところによると、其後Tはふっつり遊ばなくなった相だ。そして、この喜劇にも等しいお芝居が、案外好結果を納めて、彼等の仲は、引続き非常に睦まじく行っているという噂だ。世の中に変った男もあるものだね。
ところで、お話はまだ少しあるんだよ。それは、つい最近のことだが、ある所で、僕はふと、昔Tであった男に出逢った。見ると彼は例の細君を同伴している。で、僕は、言葉をかけては悪いのだろうと思い、何気ない風を装って、彼等の前を通り過ぎようとすると、意外にもTの方から僕の名前を呼びかけた。そして、
「いや、その御配慮には及びませんよ」
昔から見ると、ずっと快活な声でTが云った。僕達はそこにあった椅子に腰かけて、久しぶりで語り合った。
「ナニネ、もうすっかり手品の種が分っているのですよ。これをうまく担いだ積りでいた私の方が、実はすっかり、あべこべに担がれていたのです。これは、あの私のいたずらを、最初から気附いていたんだ相です。でも、別段害のある事柄ではなし、それで家庭が円満に行く様にでもなれば、これに越したことはないと思い、つい、だまされた様な体を装っていたのだといいます。道理でうまく運び過ぎると思いましたよ。ハハ……、女なんて魔物ですね」
それを聞くと、傍に立っていた、相変らず美しいTの細君は、恥しそうにほほえんだ。
僕も、最初から、そんなことではあるまいかと、いくらか疑を抱いていたので、さして驚きはしなかったが、Tには、それが自慢であるらしく、幾度も同じことを繰返して、自分で驚いて見せていた。この調子なら、先生やっぱり仲睦じくやっているな。そこで、僕は窃に、御両人を祝福したことであった。