自序
始めて自分が日本の地名を問題にしたのは、この本の中にもある田代・軽井沢であった。田代がどこに往ってもかなりの山の中にばかりある理由が何かあるらしく思われたのが元であった。算えてみるともうその頃から、優に三十年を越えている。三十年もかからなければ一冊の本も出せぬような、大きな研究項目ではもちろんない。むしろあまりに小さくかつ煩瑣なる仕事であるがゆえに、多くの人がこれに入ってみようとしなかったのである。私は境涯と資性と、ともにおそらくは誰よりもこれに適していると信じたので、さまでの努力を要せずに自身衆に代ってこの労務に服せんとしたのであるが、それでもなお中途幾たびとなく休息し、また往々にして決意の撓むことを免れなかった。今頃これくらいのものを纏めて世に問うことは、少なくとも内に省みて自ら責むべきものあるを感ずる。
我々の仲間では、問題解決の主要なる動力のいつでも外にあることを認めている。いかに不退の熱心をもってじっと一つの不審を見つめていようとも、いまだ時到らずして依拠すべき若干の事実が見つからない限りは、その疑惑はなお永く続かなければならぬのである。各人の刻苦の効を奏する途は、練習によってできるだけ敏活に、必要な知識の所在を突き留め、またその一片をも無用に放散せしめず、それぞれの役目を果さしめるより他にはない。そうしてこの間における学問の楽しみは、不十分な資料によってかりに下したる推断が後日これを検してまさしくその通りであったのを知ること、及び問題を愚痴雑駁なる附随物から切り離して、最も簡明また適切なる形として他の同志に引き続ぐことにあるのである。自分などもただこれを温かい日の光と仰いで、広い野外にひとり働いていたのであるが、年を取るにつれてこの心持が少し変って来た。まことこの問題が次に来る日本人にとって、必ず究明せられねばならぬ好い問題であるかどうか。今日の仮定説の果してどの部分が、中らなかったねと言って笑われることになるのであろうか。それがだんだんと心もとなくなって来るのである。この際に当ってわが山口貞夫君が、自身この『地名の研究』の全篇を精読せられたのみならず、これを総括して改めて世に遺すことを慫慂せられ、さらにその整理校訂の労までを引き受けてくれられたことは、自分としては抑制しあたわざる欣喜である。望むらくはこの少壮地理学者の判断と趣味が、やや多数の新時代人と共通のものであって、必ずしも好むところに偏したものでなかったことを、この書の寿命によって証明するようにしたいものである。
地名は数千年来の日本国民が、必要に応じておいおいにかつ徐々に制定したものである。その趣意動機の千差万別であるべきことは始めから誰にでも判っている。それをアイヌ語ならアイヌ語のただ一側面ばかりから説こうとすれば、かりに論理は誤っていないにしても、なお脱漏がありまた強弁があることは免れない。私の地名解は年数が永いだけに、自分の知識のいろいろの段階が干与している。ある時は旅行で得た直覚、またある時は方言や口碑の比較の間からも暗示を得、中にはまた文庫の塵の香の紛々と鼻を撲つものもなしとしない。前後に幾多の態度の矛盾があるが、それはまた地名発生のいたって自由なる法則とも相応している。その上に根本において、これを設けなしたる人生が、終始裏附けをしているという一点だけは、忘れぬように心掛けていた。その人生を明らかにすることが、実は地名を研究する唯一の目的ということも、見落してはおらぬつもりである。だから一部分の失敗によって、この巻の全部の意義を、揺がされるような懸念はないと思っている。郷土の昔の姿を知ろうとする人々には、前駆者の蹉跌もなお一つの経験となるであろう。従うて著者は決して満幅の信頼を期待してはいない。むしろ犀利なる眼光をもってこの書の弱点を指摘せられる読者の、できるだけ多からんことを熱望しているのである。
昭和十年十二月