地名の話
一
三年ばかり前のことであった。山上氏の手紙の中に、確か神保氏の話であったかと思うが、日本の地名には意味の不明なものがはなはだ多い。アイヌなどとは大いに違うと平生いっておられるということを聞いた。この一言は予にとっては感謝すべき刺戟であった。又聞きであるからもちろん趣旨を間違えているかも知れぬが、自分はこの言葉をこう解した。日本内地における地名の大多数は、今まで学者先生の研究ではまだ説明することができないものが多い。これをだんだん研究し説明して行くならば、将来地理学上・言語学上むしろ広く文化史学上に大なる利益があるであろう。おそらくはこういう意味かと解釈した。申すまでもなく地名は人の附けたものである。日本の地名は日本人の附けたものである。前住民が附けたとしても少なくとも吾々の採用したものである。新たに附けるのも旧称を採用するのもともに人の行為である。すでに人間の行為であるとすれば、その趣旨目的のないはずはない。近世のいわゆる風流人の中には退屈の余りに、何々八景とか何々十二勝とかいう無用の地名を作った人もずいぶんあるが、未開人民にはそんな余裕がない。すなわちもともと人の必要から発生した地名であるとすれば、人間生活との交渉が何々八景・何々十二勝よりもいっそう痛切であるべきはずである。またかりに前住民の用いたものを踏襲したとしてもその相続は吾々が野原で矢の根石を拾うなどとは事変り、幾度か耳に聞いてこれに習熟しなければならぬ。すなわち二個の民族が同じ土地に共棲しておったことを意味するのである。非常に重大なる史実を傍証するものである。語を換えていえば、意味がないという事実は、とりも直さず大なる意味を含んでいるものといい得るのである。
しかしながら、国民も個人と同様に、年を取ると物忘れをする。今ここに吾々が僅々百部内外の古書、『日本紀』とか『古事記』とかの古い書物を持たぬとすると、千年以前の日本人の生活の中で、今日吾々の記憶し自覚し得るところのものは果して幾許であろうか。しかもその世に遺っていた古書とても決して普遍周到な全国民の記述ではなかった。社会の上層下層に平均してはおらぬ。いわば都会に濃厚で田舎に稀薄であること、昔は今よりもいっそう甚だしいのである。ゆえに昔は最も通俗の日本語であったのを、吾々がとんとどう忘れをしているものがあるかも知れない。従って一つの地名が一見して意味が分らぬといっても、すなわち自分の所有物と言う記憶がないからといっても、これによってただちに他所からの借物であると断言することは、注意深き老翁のあえてなさざるところであると思う。しかるに現代語ですら解釈のできる地名さえ、とかくよそからの借物と認めたがる人の多いのは不思議な現象である。
自分は永田方正氏の『蝦夷語地名解』を熟読した。なるほどアイヌの地名の附け方は単純にして要領を得ている。彼等は長い地名をも意とせずに附けている。十シラブル十五シラブルの地名を無頓着に用いている。これに反して吾々の祖先は、夙くから好字を用いよ嘉名を附けよという勅令を遵奉して、二字繋がった漢字、仮名で数えても三音節、ないし五六音節までの地名を附けねばならなかった。そのために元来はさほど下手でなくても、いかにも痒い所に手の届かぬというような、多少謎に近い地名の附け方をするようになったのかも知れない。たとえば横田という地名がある。それは何の横にあるのかまた田地が横に長いというのか分らぬ。つまり主たる語を二字とか三字とか合わせただけであるために多少曖昧な地名が多くなった。日本の地名の意味が分りにくいのは、一つは法令の結果だろうと思う。
しかしながら二種の民族の地名の明不明は、決してそう無造作な理由のみで説明することはできない。もっと根本的の理由がなければならぬ。試みに彼と此とを比較してみるに、第一に考えねばならぬのは地名の数である。もちろんアイヌの地名は永田氏の著がその総目録ではあるまい。がとにかくにその広い面積に割り当ててもきわめてわずかのもので、しかもその中には驚くべき類似と重複とがある。これに反して内地の方の地名の数はこれに数百千倍している。何山とか何川とか言う山川の名前は別として、単にある一定の地域に附与せられた名称のみでも四十六府県七十市五百余郡のほかに、いわゆる新町村の数がまず一万二千、その町村の大字が多い町村と少ない所とあるが、明治十九年の表によるとだいたい十九万はある。その他に東京、京都のごとき大市街の町の数が約一万ある。右の十九万の町村大字はすなわち以前の村であって、さらにこれが字に別れている。字はごく概括的の話をすると多い村には一箇村に百ぐらい、少なくても三四十を下る所はないのである。ほぼ平均五十と仮定しても全国に約百万の字があるのである。その字の下には地方によっては小字がある。それがまた一つの字に五つも六つもある。あるいはもっとある所もある。また小字を中字と名づけ、さらにその下に十くらいの小字のある地方もある。
これら地名の数はもちろん人口の多少と比例しているものであろう。北海道には事実上の人跡未踏の地が今日でもあるということだが、内地では富士山の絶頂までもいずれかの町村の大字に属している。ゆえにかくのごとく多いのである。しかしなお別にまだ有力な理由がなければならぬ。それはいうまでもなく土地利用の状態いかんである。たとえば定住産業に従事せぬ人民は土地を区劃する必要がないので、土地の命名は等しく生活の必要に基くとしても、狩猟や採取またはそのための旅行の目的のみに土地を使用している者には、地名を附ける必要は単に目標用である。甲の地と乙の地とを区別しておけばそれでよろしいのである。これに反して一段進んで定期の占有を必要とする職業、たとえば林業・農業等に従事する者に至って、初めて細かな地名を附けて、忘れないでおくという必要が生ずるのである。
従って第二に考えなければならぬことは、命名の目的の複雑さということである。一例を言うなら同じ一つの谷川の落合でも、猟のためにその附近に出掛けるくらいの者であれば、これに川合とか川俣とかいう簡単な名を附けておけばよろしい。数の観念がこれに加わっても一ノ沢・二ノ俣というような名で済ましておくのである。またもう少し観察力が細かくなったところで、その辺の草木に注意して三本松とかウルイ沢くらいの名を附けておけば十分である。それが今一段進んでその辺で炭を焼く、石灰を焼くとかいう段になるとそれでは済まぬのであるいは炭焼沢であるとか灰谷であるとか七之助竈であるとかいう名を附ける。次いで権兵衛なるものが来て切替畑を作るようになると、権兵衛切、権爺作り、権ヶ藪などの名が起ろう。また川を渡るのに初めはびちゃびちゃ水の中を歩いているが、それでは不便であるから橋を架ける。すなわちその橋の側であるゆえ新しい地名は橋本である、柴橋である。ある時馬が柴橋から落ちて死んだから馬転ばし、その馬の供養に馬頭観世音をまつると観音岩、そこに行者でもいれば行者谷というような名が附く。さらに後世風流な隠居・坊さんなどが隠居して茶でも立てて呑むようになると、とうとう村の者にも意味の分らぬ紅葉菴だの寒月渓などという名が附かぬとも限らぬ。その中にはいろいろの原因の組合せからあるいは新しい名に人望が集まり、あるいは依然として古い名を記憶していることもあって、結局同じような地形に向って新旧種々な地名が生じ一人旅の地理学者が即座に地名の意味を会得することができるという点においては、とうていわが北方の同胞に及ばぬこととなり、さもさも物体の特性を弁別する才能を欠く者のごとく批評せらるるに至ったのは是非もなき次第である。
地名とはそもそも何であるかというと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。これが自分の女房子供であるならば、我々は他人をして別の名称をもって呼ばざらしめる権利を有っているが、その他の物名になると、どうしても相手方の約諾を要する。早い話がわが家の犬ころでも、せっかくハンニバルとかタメルランとかいう立派な名を附けておいても、お客は断りもなくその外形相応にアカとかブチとか呼んでしまう。ゆえに一部落一団体が一つの地名を使用するまでには、たびたびそこを人が往来するということを前提とするほかにその地名は俗物がなるほどと合点するだけ十分に自然のものでなければならぬのである。これ地名にほぼ一定の規則のあるべき所以であって、兼ねてまたその解説に趣味と利益とのあるべき所以である。
これから本論に入る。もし許可を得て学者臭い言葉を使うならば、元来地名の附け方には客観的と主観的との二面があるべきである。旅客その他の往来の人が通りすがりに附けて行く名前はいわゆる客観的の地名であって、そう言うのは優勝劣敗がことに甚しい。よほど顕著なる地名の特性を抽象しかつ適当に批評しておかぬと永くは残っておらぬ。吾々が友人などと遠足して興に乗じて楽屋落の地名を附けておいた所などは自分でも覚えておらぬ。従ってこの種の古い地名は多くは今日に伝わらぬ訳である。別の言葉で言ってみればこれを永く伝えるためには強い人の意思が必要である。これに反して第二種の地名は人の占有経営に伴なうものであって、ずいぶん無理なこじつけの地名を附けておいても、それで押し通して永続することができるのである。ゆえに非常に片よったひとり合点の命名をしておいても、それが残って行って年月の経つとともにここにまた不明を生ずる。今日の新町村の名を見てもずいぶん気まぐれな附け方をしたのが多い。明治村や協和村の類を始めあるいは明治二十三年市町村制施行当時の社会情態を想像せしむる材料ともなろうが、十三の大字を集めて十余三村といったり、七つの大字を合わせて七会村といったり十一の大字で仲よく暮そうというので土睦村といったりするのは、後には何のためにこういう名を附けたのか分らぬことになるかも知れぬ。また大字の頭字を一つずつ持ち寄って名を附けている所もある。『地方名鑑』などを見るとたくさんの例がある。出雲の簸川郡日御崎の附近で鵜峠・鷺浦の二大字を合わせて鵜鷺村というのがある。もっと甚しい例は甲州の北巨摩郡に水上・青木・折居・樋口の四つの大字で水と青という字を合わせて清、折と口を合わせて哲、清哲村とした。これなどは他日清哲という坊さんでも開いたということになるかも知れない。政治上の力によった地名は何といっても仕方がないのであるが近い処では横浜の町と遠い所では大連の町の名を見ても、どしどし新しい地名を附けてしまった。昔もそういう例がたくさんあったのである。たとえば『和名鈔』の郷名を見ても建部とか壬生とかその地に土着した人の姓をもって郷の名にしている。しかし私の仮定説ではあるが、これはおそらくわが国本来の風ではなかったろうと思われる証拠がある。すなわちこれらの地においては郷名として特に名家の姓を採用したことあたかも大連の児玉町・乃木町と同じである。また足利末の新大名が城を築くに勝山とか勝尾とかいう縁起の好い字を選びあるいは福徳鶴亀などを山、もしくは岡の字に結びつけて城の名にしたものが諸所に見られる。それからまたすでに存在している地名を改正あるいは廃止したのもある。廃しただけならまだよろしいが殿の仰せでお前の村名をこう取り替えよと定められたこともある。このために古い地名の消滅したのもまた多いかと思われる。しかしこれとてもつまりは生活上の必要に基かないのはないのである。気儘な御大名の気まぐれな思附きでも一方から見ればその大名の好事心、世話焼心を満足せしめたという結果があり、他の一方から見れば地頭殿の御機嫌を損ずるという危険を避ける生活上の必要があったので、言わば土地命名の動機がだんだん複雑になって行く一つの例と見られるのである。