二
私が説きたいのは主としてこの種の地名であるが、順序としてその前にすこしく第一期の地名のことをいいたいと思う。何ゆえにそれを言わなければならぬかというと、地名には一種の拡充性ともいうべきものがあるからである。最初は一地点または一地形に附与した名前を、これを包含している広い区域にも採用して行く風習があるのである。たとえば女夫岩という二つの岩の屹立している所があると、それに接続している数町歩の田畑または村里の字をも女夫岩という。ドウメキ、ザワメキ、ガラメキなどはもと水の音を形容した地名であるが、瀬の早い川の岸にある部落または田畑で百目木、沢目鬼などという例はいくらもある。その次に今一つの特性として開墾の後までも、その土地の経営が始まらぬ前からある地名を踏襲して行く風がある。踏襲性ともいうべきものである。すなわち久木野とか柚原とかいう村はもとその名の原野があって、開墾土着の後まで旧地名をそのまま採用したのである。何久手・何沼・何々ドブという地名も田地になる前の湿地の地名を踏襲したものである。以前の人口のごく稀薄な平原に入って開墾するとか、または今までなかった海岸・寄洲に埋立新田を開くというような場合に至って、始めて新たに字・小字を製造する必要を見たのであった。最初の土着者は他日人口が殖えて分区・分村の必要を見るまでは、地名などのために心力を費すだけの余裕がない。無造作を専一とした。村の字の多くがいわゆる客観的地名と似ている理由は、まったく右の拡充性と踏襲性との致すところである。
しかるにこの類の地名の中にも今日となっては意味の分らぬものがたくさんになって来た。その原因は一言もってこれを蔽えば単語の忘却である。老人の物忘れである。日本語の中にも山川地形を現わす言葉はまさしくその目的物の数だけあって、また相応に些細な特色について区別的命名をすることは怠らなかったのである。ただいかんせん京都附近の地形は比較的単純で、北野とか東山とか、名のみ立派でも変化に乏しくかつ小規模であった。しかも著述でも世に遺そうという人に、忠実なる旅行家が不幸にしてなかったのである。藤原実方が歌枕を見て参れと奥州へやられた事実は非常に悲しむべき不幸と考えられた。歌枕を見て来るとは、和歌に用いられる地学上の用語を実物と比較して研究することであって、今日の学問から言えばむしろ名誉なる事業であるが、実方はそのために恨み死をして雀になったのである。この状態であるから『新撰字鏡』とか『和名鈔』とかいう平安朝の語彙の中には、山扁土扁などの語ははなはだ少ないので、せいぜいで五十か七十はあろうが、それすら後世の文章や歌などには半分も使用されておらぬ。しかし田舎に行ってみるとかくのごとき名詞はまだ口語としてたくさん残っている。ただ口語であるために地方的の異同がかなり烈しい。のみならずこの種の地方語はいわゆる田舎言葉としておいおい擯斥せらるるようになった。今日でも府県郡の教育会の人たちの中には、単に東京のごとき新しい砂原の中で使用せられておらぬということを理由として、ややもすれば地方在来用語の使用を廃してしまおうとするのである。いわゆる方言矯正の事業はいかにも有害な殺伐なるありがた迷惑極まる事である。それがためにせっかく地学の研究は発達しても、諸君はまずもって漢語を二字ずつ繋いで使うために、非常なる難儀を見なければならぬ。新しい学問を国語で学ぶというありがた味は、何だか大分減少するようである。
もっともよく気をつけて見ると、今日からでも地理学の教科書に採用して頂きたい言葉が全国にわたってたくさん残っているのである。それは今晩の問題ではないが、ホンの一二例をいうと、たとえば河内・水内等という語である。河内はコウチ・カワチ・カッチなどと発音して、地方により音韻上の小異はあるけれども、意味は常にいわゆる盆地すなわち渓間の小平地をいうのである。タワ・タオ・トウというのは山峯続きの中で、両側の谷の最も深く入り込んで嶺のそのために低く残っている部分、従って山越に便なる箇所である。陸軍などの人は御職掌がらか鞍部と言われている。タワ・タオのごときはいわゆる標準語として承認せられたことのある語で、『新撰字鏡』にも出ている。それから川底の低下によってできた谷の両側の高い平地、諸君が段丘などといいあるいは外国語のままでテラッセなどと仰せある所、あれはハナワまたはウワノである。塙と書き上野とも書く。それから海岸でも山の中でも水流の屈曲によって造ったやや広い平地で、従って耕作居住に適した所をふくれるという意味から福良といっている。それと同じように水の動揺によって平らげた岸の平地を由良とか由利とかいっている。すなわちユラグ、ユルなどという言葉が転じたのである。それから山中で少しく平らな所をナル・ナロと呼ぶ。ナラスということで、大和の奈良を平城と書くのも同じことである。また谷川の両岸の山の狭まっている所をホキ・ホケ・ハケという。これは今中国四国などに残っているが大分広い区域にわたっている。吉野川の大ボケ小ボケなどはその一例である。東北その他の地名にノゾキという地名がある。山形県の最上から羽後の院内へ越えようとする所の小さい停車場などもその一つであるが、ノゾキは本来野のソキすなわち境上の原野ということである。こういう言葉はまだたくさんにある。おいおい再度の採用を願いたいと思う。あるいはそんな古臭い言葉は新しい学問に適しないといわるればそれまでであるが、支那でも日本でも流行せぬ新熟字の漢語を苦しい思いをして案出するよりは少しばかり賢くはないかと思う。これらの地理上の語は今日普通名詞として存在する地方ではいずれもかなり適切にこれを地名に用いている。この事はアイヌなどとよほど似ているのである。すなわち最初普通名詞として無邪気に用いていたのが、いつとなく文法書にいわゆる固有名詞と変って行きつつあるのである。吾々が始めて土地に名を附けた時には名詞の普通・固有の区別などはなかった。たとえば海岸に近く島が一つあるとそれを島と呼ぶが、二つ並んでいると区別をしなければならぬので、大島・小島とか東島・西島とか区別する。また木のある方をその色で黒島、ない方を土の色で赤島、黒島に二つ村ができれば南黒島・北黒島などと、だんだんいわゆる固有名詞らしい地名になって行く。市場などでもそうである。一つならばどこへ行く、市へ行くまたは町へ行かぬかなどといえばよろしいのであるが、二つになると布市・馬市とかあるいは市日によって三日市・四日市などというようになって、それが一つの固有名詞になる。開墾に際して新たにできた地名とても皆同じことで、初めはアイヌと同じくきわめてナイブなもので、目的は単に他と区別をすればよろしいのだから、別に装飾的意匠を必要としない限りはこれらの普通名詞の前後へちょっと何か区別の語を添えればよかった。それが占有の思想が発達していよいよ細かな分割を必要とするようになるか、または大規模の開発で一時に数十百の区劃を設けなければならぬとなるととうていあり合せの地名だけでは間に合わず、是非なくできる限りの手軽なる方法、便利なる工夫を尽して地名を決定したのである。
元来開墾の歴史は日本ほどの狭い国でも長くかつ複雑なものを有っている。一つの谷一つの入に何回も何回も開墾が繰り返されていることもある。屋敷田畑はしばしば捨てられて素地の状態に復した。これはいくらも証拠がある。ところがいずれの村でもその土着の年代の古いのをもって名聞とするから村の伝説は皆田村将軍以前からとなっている。しかしおよそいつ頃の開墾であるかは多くの場合に地名がそれを証明するのである。等しく開墾を意味する言葉であっても、その時代と場合の異なるに従ってその名称が数十通りある。北海道に行くと何々農場という地名ができている。那須郡などの大字の地名に何々開墾というのがある。これらは最も新しい固有名詞である。それより以前最も普通のものは何々新田という地名である。新田の中でも何村新田というのは村事業としての開墾で、何右衛門新田というようなのは個人の事業である。徳川幕府領ではたしか享保度に大きな新田検注があった。ゆえにいわゆる天領・旗本領ならば新田といえばその頃以後の土着であることがわかる。越後の方では新田より一段古い新田で、古新田、外新田などという村がある。すなわちいずれも徳川期に入って後の経営に違いないがその年代に区別がある。越後ではこれら新田と併立して何々興野という地名がある。これはやはり開墾地を意味する語で、山形県・秋田県にも大字の地名が多い。宮城県に行ってあるいは同じ音で高野と書き、関東の二三地方で幸谷という文字を用いているのも同じことで、その本来相当の漢字は荒野である。これらは僧侶が学問を独占した時代あるいはそれより以前の旧ハイカラの所為で、在来の日本語を漢字のまま音読する、今も絶えない一種の趣味である。明治の初めに用掛のことをヨウケイなどといった類である。話が多岐にわたって相済まぬが上総・下総で峠と書いてヒョウというのは標の音である。標はシメである。また澪標のツクシである。これは堺ということを意味する古い言葉である。これがいつの間にか何々ヒョウと言うような音読になった。これも地方歴史または文書に与った法師などの始めたことで、越後などの何々興野と同じ例である。興野が荒野で開墾地を意味することは、確か大田蜀山の『玉川披砂』という見聞録の中に、多摩川南の関戸村の某氏の古文書中に、天文頃小田原北条家の出したもので、新宿興行に付き七年荒野申し付くる云々というのがある。すなわち資本を投じてここの新宿に土着する者の権利として、土地が屋敷または田畑となって後も七年の間は荒野同様の取扱いをしてやるという免状なのである。今日の地租条例の用語でいえば、地価据置年期に当って一種の開墾奨励策である。後世の新田にも多かったことである。また荒野の字を避けていろいろほかのめでたい字を用いたのは、荒が一方に凶作を意味する不吉の文字であるからで、飛騨の荒城郡を吉城郡と改めたのと同じ例である。