開墾奨励の他の方法としては特に租額定免の制度を永久に存続する策もあった。古くから請負場または請所ともいっている。また何村受・何右衛門受などいう村名は皆かくのごとき条件の下に、永久にやや軽き租額以上には増課せぬことを定められた地方を意味するのである。しかしその土地が本田同様の熟田となり、かつ権利移転が頻繁になって後は、新旧の田畑の間に賦課が不均衡であるのは経済上有害であるゆえに、できる限りは年限を設けその年限の終りに至って検注を行う代りに、それまでは無税同様にしておくというのが、右の七年荒野・十年荒野というものになるのである。開墾者の側からは年期終りの検注を縄を受けるという。何年縄とか丑年縄受などという大字の名は、この事実をもってただちに地名にしたものである。今日縄手という普通名詞なども、測地のための幹線というのが元で、長く通った道路を意味するように転じたのかと思う。
関西地方のように早くから人口が稠密で一村の分限の狭い所では、開墾は奨励してもこれに伴なう分家はこれを制限する必要があった。新開地の地名として今在家・新庄家・新屋敷等のごとく、戸を標準とする地名の多いのは自然の結果である。つまりは人口増殖の圧迫の下に農民は資力の許す限り分家を造りたい。しこうして大規模の開墾事業にして始めて在家新設の特許を得たから、その地名はかかる肝要なる事実を現わしたのである。山野の豊富な関東地方には、この種の地名はどうしても少ないわけである。
右のごとく多くの村々の名はそれぞれ開墾を意味することは同じくても、その種類によってほぼその村起立の年代とその当時の地方経済事情が分るのである。九州の南部に行くと、ほとんと各村に何々ビュウ・何ベップという地名がある。別府と書くが鹿児島県などの発音はビユと聞える。この地名はまことに多い地名で、もし今すこし少なかったならば、あるいは昔の地方官の別荘だなどという解釈も出たかも知れぬが(肥後国志は現にそういっている)、幸いにしてむやみに多数である。一村に幾つもある所がある。このビュウが新開ないしは切添を意味することは今日でもあの地方の人は知っている。ただ何ゆえに新開地を別府と申すかという説明はやや複雑である。予の考えたところではビュウは今日は別府と書くが本来は別符である。符とは太政官符すなわち太政官の発した特許状を意味している。荘園の新立は必ず官符の力によったものであるが、主たる荘園のすでに十分繁栄して後に第二の官符によって附近の山野を拡張開墾するのが別符である。すなわち追加開墾特許状を意味し、さらにこれによる開墾地を意味している。追加開墾地は一段成功の困難なるものと認められ、条件はいっそう寛大にしてあったかと思う。荘園制度の初期には開墾の追加は一々別官符を必要としたために、後世領主が自己の権内において荘内の空地にこれを許す場合でも、やはりその事業を別符といったのである。元来村の戸口に比較して素地の広い場合に、条件を寛大にして新田を奨励するのは元は平民一般の競争を誘うためであったのだが、人間は今も昔も同じことで、利益があれば勢力者がこれを壟断するのは珍しくない。事実においてその別符も社寺または領主の近親重臣輩の抱地になって百姓は依然として普通の重い下作料を出した。関東では九州のビュウに当る土地は皆別所と言う。武蔵などはことに多い。『新編風土記』の著者もこの事実は注意したが説明はない。別納または加納という地方も皆同じ意味だろうと思う。一色別納という語は『吾妻鏡』にすでにあってすなわち一定の現物収入を目的とする追加開墾地である。布の一色・油の一色・網の一色という大字の名も残っている。本荘に対する新荘も同じく追加開墾地である。その本荘が公田すなわち国の領地である時には荘と言わずに郷または保という。新郷・別保・新保などは本郷・本保に対する別符である。また別名という所もある。東大寺領播州矢野などでは別名に対するのが例名である。これも追加開墾地である。「名」は荘園の小区劃の意味で、おそらくは別名は個々の名主がなした追加開墾地であろう。要するにこれらの地名は今日の語でいうと枝郷・出郷・出村というのに該当するのである。